鈴鹿サーキットに歴代F1が集結、ホンダF1の歴史を振り返る
一歩届かなかった第3期
第3期のスタートは1999年、車体やエンジンを全て自社で開発するフルワークスチームとして参戦を目指し、元ティレルチームのハーベイ・ポスルスウェイトをテクニカルディレクターへ迎えて試作車RA099を製作した所から始まります。しかし、ポスルスウェイトが急死したことで状況は一変、2000年からB・A・Rへエンジン供給を行う形でF1へ復帰しました。 また、B・A・Rの他にジョーダンへもエンジン供給を行っており、2002年には同チームから佐藤琢磨がデビューしています。 B・A・R時代はジャック・ビルヌーブやジェンソン・バトン、そして佐藤琢磨らがトライバーとして起用されましたが、1勝もすることが出来ず、コンストラクターズランキングも2004年の2位が最高位でした。 2006年になると、ホンダはタバコ広告規制の影響で撤退を検討していたブリティッシュ・アメリカン・タバコからB・A・Rの全株式を取得してワークスチーム化。ドライバーはジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロという経験豊富なラインアップで撤退まで挑むことになります。 また、ワークスチーム設立の一方で、元F1ドライバーの鈴木亜久里氏が立ち上げた「スーパーアグリ」へもエンジンや技術供与を開始します。
ワークスチーム1年目の2006年には、ハンガリーグランプリでバトンが第3期初の勝利を挙げて今後が期待されたものの、2007年は表彰台にも届かない低迷を見せます。 2008年には、元フェラーリのロス・ブラウンをチーム代表へ迎え、チームの建て直しを図ります。ブラウンは大幅にレギュレーションが変わる2009年に向けて開発に注力したものの、2008年末にリーマンショックに伴う不況のためにホンダはF1から撤退を発表しました。 ホンダ撤退後、ブラウンはチームを買い取り「ブラウンGP」として再始動させます。 ホンダの次期マシンとして開発が進んでいたブラウンGPのBGP001は驚くべき速さを見せ、2009年のコンストラクターズチャンピオンとドライバーズチャンピオンを獲得。翌年メルセデスに買収され、メルセデスGPとして参戦を続けています。