鈴鹿サーキットに歴代F1が集結、ホンダF1の歴史を振り返る
F1ブームを巻き起こした第2期
再びホンダがF1へ戻ったのはターボエンジンが全盛期の1983年でした。1983年~1992年まで10年間続く参戦第2期では自社で車体開発やチーム運営などは行わず、エンジン供給者として参加しています。また、1987年からは鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが定期開催されるようになり、富士スピードウェイで開催された2000年後半の2回を除いて現在まで続いています。 1984年から87年までの4年間、ホンダはイギリスのウィリアムズへエンジン提供を行っています。その中での結果は目覚ましく、1986年に投入されたFW11はナイジェル・マンセルとネルソン・ピケという名ドライバーのコンビで16戦中9勝を上げ、コンストラクターズランキングで他を圧倒しました。さらに、1987年に投入されたFW11Bではネルソン・ピケのドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルを両方獲得しています。 1987年になると、ウィリアムズの他にイギリスのチーム・ロータスへもエンジン提供を開始。キャメルカラーでなじみの深いロータス99Tとともに日本人初のフルタイム参戦ドライバーである中嶋悟がデビューを果たしたほか、この年に2勝を上げたアイルトン・セナとの関係も生まれます。 1988年には、イギリスのマクラーレンチームへエンジン供給を開始。提携初年に投入されたMP4/4は、アイルトン・セナとアラン・プロストという名ドライバーの元、16戦中15勝という驚異的な結果を残し、セナに初のドライバーズチャンピオンをもたらします。 翌1989年にはターボエンジンが禁止となりますが、新たに開発された3.5リッター自然吸気V10エンジンでも優位性は揺るがず、MP4/5によるチームメイト同士の激しいチャンピオン争いが繰り広げられました。
1991年になると、マクラーレンはV12エンジンを搭載したMP4/6を投入。同年にはコンピューターで姿勢制御を行うアクティブサスペンションを導入したばかりのウィリアムズ・ルノーFW14も登場しましたが、まだ信頼性に問題が多く出遅れたため、セナが3度目のチャンピオンを獲得します。 また、同年にはティレルチームもホンダエンジンを導入したティレル020が投入されました。しかし、こちらはマシンとエンジン重量のバランスに問題を抱えて結果を残せず、同チームに所属していた中嶋悟は引退を迎えました。 ここまでは強かったホンダ勢ですが、翌年1992年はアクティブサスペンションの信頼性を高めたウィリアムズ・ルノーが圧倒的な優勢となり、F1はコンピューター制御のハイテク時代へと突入。マクラーレン・ホンダは苦戦を強いられます。 さらに追い打ちをかけるように、バブル崩壊のあおりを受けて自動車販売台数が減少したホンダは、同年9月にF1活動の休止を発表。通算69勝を上げて第2期の参戦を終えました。