『燕は戻ってこない』が浮き彫りにする誰もが抱える孤独 長田育恵による幸福な実写化に
「そう、これはただの卵の話」 ドラマ10『燕は戻ってこない』(NHK総合)第1話は、石橋静河演じる主人公・理紀(リキ)のそんなモノローグから始まった。これはただの卵の話。卵に纏わる、多種多様な欲望の話なのだと思う。そしてその欲望は、どれをとっても正解で、特に、理紀のとった思わぬ行動で予定調和がすべて狂い始めた第6話は、そのことを喜ぶりりこ(中村優子)の合いの手含めて、どこか喜劇的で、好ましかった。 【写真】狂気の親子となっている稲垣吾郎と黒木瞳 本作は、吉川英治文学賞・毎日芸術賞をW受賞した桐野夏生の同名小説(集英社文庫)を原作に、朝ドラ『らんまん』を手掛けた長田育恵が脚本を担当した作品である。演出は田中健二、山戸結希、北野隆と、優れた作品を多く手掛ける名手が揃う。本作を観ていて、理紀も、テル(伊藤万理華)も、悠子(内田有紀)も、佳子(富田靖子)も、よく知っている人のような気がした。私は確かに、彼女たちが抱えるその痛みを知っている、そう思った。この共感の源泉が知りたくて、桐野夏生による原作を手に取った。 原作と読み比べて感じたのは、本作がいかに幸福なドラマ化作品であるかということだ。第一に、桐野夏生だからこそ描ける、多くの人が共感せずにはいられない女性たちの体験、それによって生じた心の痛み、苦しみ、もしくは内に秘めた欲望を見事に反映した作品であること。そこに、長田育恵脚本は、ドラマ作品ならではの描き方で、登場人物たちのキャラクターを際立たせていった。例えば、故人である理紀の叔母の佳子の存在がこんなにも大きいのは、演者である富田靖子の存在感でもあるが、いつも「一人で作るのは面倒くさいから」と理紀に振舞う薬味たっぷりのそうめんの、理紀にとって「一緒にいると居心地がいい大好きな叔母」の作る料理としての説得力ゆえとも言える。 本作、原作ともに冒頭で描かれる「卵の本質」のエピソードはその後も度々形を変え描かれ続ける。卵はゆで卵にもオムレツにも卵焼きにもなり、時にテルが彼氏・ソム太(フレン・マリノ)と食べる2人分の目玉焼きにもなる。時には、卵は卵でも、明太子になることもある。シュークリームはテルと理紀がシェアして食べるコンビニスイーツとなり、悠子とりりこが食べる有名店で買ってきた高級なおやつになる。連想ゲームのように繋がっていくイメージは、交わるはずのなかった世界を生きていた人々を同じ線上に繋ぎ、時にその生活格差を、欲望の違いを、もしくは変わらない孤独を浮き彫りにする。 前述したように、本作は欲望の話だ。基(稲垣吾郎)は、自分のDNAの証明のため、「母さんにも俺がいたように、俺にも俺がいてほしい」と子供を欲し、理紀は生殖医療ビジネスのため、自分の子宮と体が使われ、妊娠が成立してしまうことで「自分じゃなくなっちゃいそうで」恐怖を感じ、自らの欲望に従って男を買い、昔の男と寝た。 「優等生」悠子もまた、実に繊細に、欲望の所在を詳らかにする。第2・3話における、基と出会った頃の悠子の姿だ。バレエダンサーである基が踊る手に合わせて、客席の悠子の手もまた小さく揺れる。実際に彼に会った時、彼女は彼に触れた。彼の足に触れ「あなたの子供、産みたいです」と願った。彼女の内側に本来存在していた、真っ直ぐに迸る欲望は、やがて第3話で言及されるところの、理紀という代理母を介した出産プロジェクトを「これが私の生殖行為」とすることで形を変え、どうにか折り合いをつけたように思えたが、やはり未だ葛藤の中にいる。かつて狂おしく基を求めた手で、悠子は今、学生時代に書いた自画像にそっと触れる。涙を拭う。ギュッとハンカチを握りしめる。第2話において、ハンカチを握りしめた悠子の手を見て、かつての佳子が握りしめていた手を思い出し「この人も、間に合えなかった人なんだ」と理紀が思う場面も印象的だった。