『燕は戻ってこない』が浮き彫りにする誰もが抱える孤独 長田育恵による幸福な実写化に
『燕は戻ってこない』が繰り返し春画を扱う理由
本作には「春画」が度々モチーフとして扱われる。第3話の悠子とりりこの会話を引用すれば、春画は「笑うための絵」であり、「明るいまぐわい」を描いている。原作においても「だから私は春画が好きなの。男女が対等に描かれている。女は誰も嫌がったり、苦しがったりしていない」「あくまで性愛の楽しさだけしか描いてないね(p,383)」とある。 そしてその「春画」のエッセンスを本作中に散りばめるに至って必要不可欠なのが、悠子の友人で春画作家の寺尾りりこというキャラクターだ。「あらゆる他人に対して性的興味が一切ない」彼女は「家族制度から抜け落ちるアンチ」として世の中の常識に対して疑問を投げかける存在としてそこにいる。つまり、この、多種多様な欲望渦巻く混沌とした世界の中で、彼女だけが登場人物たちを冷静に俯瞰することができる立場にあり、時に疑問を投げかけ、状況を分析し、こちらに伝える役割を担っているのである。そして、そんな彼女が気に入ってアシスタントとして雇おうとまでしている理紀。理紀もまた、本能の赴くまま、無意識に春画の理論を体現するかのような行動力でもって、生殖医療ビジネスの根幹を揺るがそうとしている。 さて、悠子の心はどう動くのか。誰もが理紀のように「自分の欲望に忠実に生きる」ことができたらいいが、多くの人は悠子のように、胸の内に燻る何かを抱えたまま生きているような気がする。だから彼女が気になってしょうがないのである。
藤原奈緒