「私の身体は私そのもの」という考え方は本当に正しいのか…常識をブチ壊す「哲学の大激論」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】「私の身体は私そのもの」という考え方は本当に正しい? 常識をブチ壊す激論 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
「身体を所有する」とはどういうことか?
ロックに倣って自己の身体を所有するという場合、その主体は何なのかということが気になってくる。 非物質的な意識体のようなものを想定したとしても、その存在を客観的に示すことは誰にもできないという大きな難点がある。 そこで、身体所有論に懐疑的な人々は、身体に対する自己支配ということは単なる心理的イメージ、かつそれ以上正当化できない基本的な道徳的直観であるにすぎない、と批判する。 この立場はさらに、自己の身体の「所有」主体は身体的自己であるのか非身体的自己であるのかわからない、だから身体「所有」という言い方をやめるべきだと提言する。 だが、それに対して身体所有論者は、「所有主体がわからなくても人は〈人身(=自分自身の身体)の自由〉を無条件に肯定し、自己の身体に対して排他的な権能をもっていると直観するではないか」と述べ、あえてその権利主体が何かを問うならば、「具体的な身体と心からなる個体としての人間」である、と答える。 人の精神活動はその人の身体利用の全体の中に実現されるから、というのだ。 そして、批判にもかかわらず、「所有する」という言葉を使わなければならない理由があるという。もし人が自分の身体を「所有」していないとすると、人から切り離された身体の一部は無主物となり、最初に占有した人の所有に帰してしまうではないかというのである。 たとえばAが身体の自由を奪われ、もしくは意識不明とされた上でBによって無理矢理身体の一部を切除されたり臓器を取り出されたとした場合、それらに対するAの「所有」を認めていないと、それらはBの無主物先占(誰のものでもない物は最初に獲得した者のもの)物つまり所有物と見做されてしまうことになる。 これはAの尊厳を剝奪することだろうし、いつ自分が自由を奪われて切り刻まれて売りに出されるかと思うと怖くて外を歩けない。