余命宣告を受けた写真家が今になって思い出す「樹海の自殺志願者」の言葉
なぜ樹海で死ぬのかと聞いたら、おじさんの答えは「死ぬ場所がないから」だった。 「電車で死んだら損害賠償がかかるし、家で死んでも家族に迷惑でしょ」 おじさんに深い話は聞けなかったし、写真も撮らなかった。 やがておじさんは立ち上がり、スーツのズボンをぱんぱんと払った。今から死ぬのに、スーツの汚れを払うその人間くさい仕草が、今も印象に残っている。 おじさんは、「君は頑張ってね」と言って樹海の奥に行き、僕は日が暮れる前に樹海の外を目指した。 ● 死と直面することで 本当に大切なものが見えてくる 僕は自殺を否定しないし、安楽死を含めて、死は絶望した人のオプションだと思っている。本人が死にたいほど苦しみ、決心して決めたのだ。その先のその人の人生に責任が持てないのであれば、止める権利はないだろう。そして、誰かの人生に誰かが責任を持つなんて、夫婦でも親と子でも、できないことなのだと思う。 しかし本当は死にたくなくて、自殺の理由が解決できる問題ならば解決したほうがいい。それには考える力とお金がいるから、息子にはそれをしっかり備えてほしい。 では、お金で解決できない問題で死にたくなったら、どうすればいいのだろう? 死は日常の中にある。ガンになって自殺も考えたけど、死を解決する方法はまだわからない。 人生を生きる意味もまだわからないけど、生きる価値はあるものだと感じている。 死に直面した僕に今必要なのは、鉄砲ではなくカメラだ(編集部注/著者は狩猟免許を持つ狩猟家でもある)。 ガンと宣告されてから毎日息子のことを撮影している。好きな被写体を好きなように撮る日々に充実を感じている。 死と直面することで本当に大切なものが見えてくる。 皮肉なものだけど、死と直面することで生きていることを実感するのだ。 息子は2歳になり、自我が芽生えてきた。うまくご飯が食べられると僕と妻がほめるからニコニコするし、知らない人に「かわいいね」と笑顔で言われると、笑顔でこたえる。好きなのは電車で、僕と同じで犬が苦手だ。 2歳はまたイヤイヤ期と言われるだけあって、うまくいかないことがあると、言葉が出てこないぶん、癇癪を起こしてスプーンを投げつけたりする。 そのなんでもないすべてが生きていることで、命のあかるさだ。