「広島の人は原爆で全員死んだと思われていた」 ボストンマラソン優勝「田中茂樹」がアメリカ人から受けた非礼
スポーツの勝利は、時代によって意義や影響力が大きく変わる。戦後数年間は国民感情や国際理解に大きな影響を与えた。 【写真をみる】田中茂樹の勝利を語るとき「忘れられない存在」とは? 古橋廣之進が全米水泳選手権に優勝したのは1949年8月。そして51年、ボストンマラソンで日本人初優勝を飾ったのが広島県出身の田中茂樹だった。大会直前、《人気者の田中選手》の見出しで朝日新聞は次のように報じている。
〈当地では田中少年の評判は大変なもので新聞では茂樹という名を「シギー」という愛称で呼んだり、広島県出身なので「原爆の子」とはやし立て田中の記事で持ち切りの状態である〉 これを読んで戸惑った。 なぜアトムボーイ(原爆の子)がそれほど脚光を浴びたのか? 調べると、当時のアメリカ人たちを驚かせ、喝采させる背景があった。 大会出場のためボストンに入った田中ら日本人4選手は、国防総省の関係者から尋問を受けた。とりわけ広島出身の田中は驚きの目で見られた。なぜなら広島の人は原爆で全員死亡したと思われていたからだ。 「そうか、生きていたのか、それは素晴らしい!」 というわけだ。現地の新聞に同様の報道がされ、田中は一躍人気者になった。日本人からすれば不思議な優劣意識がそこにある。自分たちが全滅させたはずの広島の人が生きていた、それを喜び、喝采している。なんと傲慢(ごうまん)な、高みの見物意識だろうと私は感じる。 「失礼なやつらだ」、田中も当局の扱いに憤慨したと後年、朝日新聞の取材に答えている。記事にはこうある。 〈45年8月6日の朝、14歳の田中は広島県北部の庄原市で、南の空を切り裂く不思議な光を見た。原子爆弾だった。大やけどの人々がトラックで運ばれてきた。苦しみもだえ、息絶える。「こんなことをするアメリカはひどい国だ」〉(朝日新聞2006年12月4日)
「捕虜になる」とおびえ
ボストンに渡ったのはその6年後。田中には抵抗があった。なぜ自分はアメリカに行ってマラソンを走る必要があるのか? その心情は、生前の田中に取材した作家、スポーツライター、ジャーナリストの田中耕がNumber Web(2023年1月3日)に書いている。 〈監督に選ばれた岡部(平太)は「アメリカの伝統のある大会を制して、敗戦で打ちひしがれた日本人の誇りを取り戻す」と意気込んだ。 ただ、戦後間もない時代、選手は不安に駆られていた。田中は岡部とこんな会話を交わしたことを覚えている。 「岡部さん、なぜ、アメリカで走らないといけないんですか。戦争で戦ったアメリカでレースをするなんて、敵国に乗り込むことと同じですよ。それは我々が捕虜にされることを意味しているんじゃないですか?」 「心配するな。私はアメリカに留学して生活をしていたんだ。君らが思っているような国ではない」〉 それでも田中ら選手たちは、誰かが優勝できなかったら「捕虜になるに違いない」とおびえていた。 55回を迎えた伝統のボストンマラソンは4月19日正午、ボストン郊外ホプキントンでスタートを切った。出場153名、朝日新聞は伝えている。 〈小雨降るなかを小柳選手はコース半ばの13マイルを1時間9分で通過する快速ぶり(中略)最後の5マイルで弱り、19歳の少年田中選手がかわってトップとなり遂に2時間27分45秒の好記録で優勝した〉 田中自身は、先の朝日新聞で回想している。 〈レース中、足が痛くなった。息も苦しい。でも負けたら日本に帰れない。必死で後半の「心臓破りの丘」で勝負をかけた。2位の米国人に3分以上の差をつけてゴールイン。監督の岡部平太(おかべへいた)が涙ながらに抱きついてきた〉