「明治」を描いた細心の努力 明治神宮ミュージアムで「壁画に挑んだ画家たち」展開催
明治時代を後世に伝えるために、画家たちはどれほど細心の努力を重ねたのか。明治神宮(東京都渋谷区)の内苑にある明治神宮ミュージアムで、「明治を描く-壁画に挑んだ画家たち-」展が開かれている。日本史の教科書でおなじみの「江戸開城談判」「岩倉大使欧米派遣」といった明治神宮外苑の聖徳記念絵画館が所蔵する壁画ができるまでの過程を、最近発見された「壁画謹製記録」の草稿や、明治天皇ゆかりの資料などからひもといている。 聖徳記念絵画館には高さ約3メートルの壁画80枚が掲示され、明治天皇と昭憲皇太后の生涯と、明治時代の主要なできごとを来館者に伝えている。今回の展示では、製作過程で描かれた壁画下図8点と関連資料を集めた。 その一つ、明治8年の第1回地方官会議に明治天皇が臨んだ「地方官会議臨御」では、天皇の正装や出席者の配置、関東大震災で焼失した浅草東本願寺書院の描写など、さまざまな資料が参考にされたことが分かる。 勝海舟と西郷隆盛が対峙した「江戸開城談判」では、写真がない西郷を描くため、東京・上野の銅像を参考のため撮影しようとして苦労したり、西郷家で働いた者から髪型を教わって反映したりしたことが、謹製記録の草稿で明かされている。 「岩倉大使欧米派遣」は、明治4年に大使節団が横浜港を出発する場面で、小船には日本初の女子留学生5人が描かれ、後に津田塾大を創設する津田梅子(当時8歳)の姿もある。この壁画を担当した山口蓬春が梅子を描くために、梅子の当時の着物を借用して自分のめいに着せて撮った写真などが、山口蓬春記念館(神奈川県)から提供されている。蓬春が壁画の正確性を期すため、周到な準備を行ったことが分かる展示内容だ。 80枚の壁画は、まず画題を有識者らが策定し、考証図を洋画家の二世五姓田芳柳が描いて盛り込むべき情報や構図案を示し、選ばれた当時の一流画家らがさらに資料や取材に基づき下図を製作して、下図持寄会に提出。厳しい検討と修正、承認を経た上で壁画が製作された。 担当学芸員は「明治の歴史を描くことで間違った記録をしないために、考証の重要性が非常に大きかった」と説明する。画家らの負担は大きく、完成前に7人が亡くなったという。