豪雨対策に「もう1本川を作る」 東京の地下河川計画が動き出す
■ “タブー”だった「地下河川構想」
去年、地下調節池について取材をしている時、ある都庁幹部がボソッとつぶやいた。 「昔、地下調節池をつなげて『地下河川』を作る構想があった時期もあります。ただ、その言葉もこれまで都庁内では“タブー”だったんですよ」 確かに、地下調節池をつなげると地下に長大な“河川”ができる。 その「地下河川」がなぜタブーだったのか。理由を探るため、都議会ホームページの会議録検索サービスを開いた。「地下河川」という言葉を検索すると121件ヒットした。一番古いものは1985年の都議会第1回定例会。本会議での鈴木俊一都知事の所信表明だった。 「頻発する都市型水害に対処するため、(中略)新たに環状七号線の青海街道から甲州街道までの地下に、約3キロメートルにわたって巨大な調節池を設置することといたしました。これは、将来区部各河川の地下調節池群を連結させ、放水路として利用する地下河川構想の第一歩となるものであります」 地下調節池をつなげる「地下河川」の構想は40年前に大々的に打ち出されていたのだった。都が初めて地下トンネル式の水害対策施設を整備したのが、神田川・環状7号線地下調節池。鈴木都知事が所信表明した翌年の1986年に最初の「都市計画決定」が行われ、第1期が1998年。第2期が2008年に完成した。 ところが、鈴木知事が打ち上げ、都議会で多く取り上げられた「地下河川」の言葉は、次の青島都政、石原都政にかけて扱われる機会が減り、2010年の建設局長の答弁以降、ピタリと会議録に出てこなくなったしまった。 その原因は「バブル崩壊」を受けた都税収入の急減だった。青島知事は支出を削減する財政再建に着手したものの、1998年に「財政危機」を宣言するほど追い込まれていた。これを受けて、次の石原知事のもとで「財政再建プラン」が策定された。鈴木知事が大々的に打ち出した地下河川構想は財政再建の中でしぼんでしまったのだった。 財政再建中の2000年に三宅島が噴火すると、水害対策どころではなくなったという。当時、防災担当だった都庁OBは 「当時は火山防災が大きな課題でした。地下調節池は目立たない施設で維持管理費はなるべく安く抑えろという方針だったと覚えています」 別の都庁幹部だったOBも 「当時は地下河川のような金のかかるものを作るわけにはいかないと思っていた」 その頃の都政の雰囲気は、一にも二にも事業費の節約だったという。 そのため、金がかかる「地下河川」は使われなくなり、“タブー”となってしまったのだった。