富士山と宗教(3) 神社でお経をあげることも、神社と富士講の関係とは?
山梨県富士吉田市の市街地にたつ金鳥居(かなどりい)。国道138号をまたいでたち、多くの車が金鳥居をくぐって通行している。実はこの鳥居、神社の鳥居ではなく富士山という神の山の鳥居として、俗世と神域である富士山との「結界」を示したものだという。富士山登拝に訪れた富士講信者は、金鳥居をくぐって登拝にのぞんだ。金鳥居は江戸時代中期、天明8(1788)年に富士講信者によって建てられ、その後、何回か建て替えられて今日に至っている。
神楽殿などに記された卍
江戸時代中期、江戸を中心に全国的な隆盛を誇った富士講。信者は、金鳥居をくぐって富士山の神域に足を踏み入れ、金鳥居から北口本宮冨士浅間神社に至る通り沿いにある御師の家で一泊し、吉田口登山道の起点となる北口本宮冨士浅間神社を参拝して富士山に登った。 「富士講の方々にとっては富士山そのものが信仰の対象です。昔は徒歩でしたので、吉田に着くのが大幅に遅れたり、その逆もあったわけですが、早く着いた時は、お胎内に行ったり、八海に行ったりして登拝前の時間を費やしました。北口本宮冨士浅間神社は、富士山の神様をお祀りしている神社であり、登山道の入口でもありますから、富士講の方が北口本宮冨士浅間神社に参拝することは自然なことでした」。 こう話すのは、北口本宮冨士浅間神社で権禰宜を務める小澤輝展(こざわてるのぶ)氏。今も富士講信者が登拝のために寝泊りする「筒屋」の第20代の御師でもある。
北口本宮冨士浅間神社の境内には、富士講との関わりを示す様々なものがある。富士講では、富士山に33回登拝すると大願成就するとされ、境内にある登山道入口には33回の登拝を達成したことを示す講社の碑が数多く建てられている。 拝殿には、「講中」と記された大きな鐘が下がっている。講中とは、講社と同じ意味で、江戸期は講社よりも講中と呼ぶことが多かったようだ。東宮本殿や西宮本殿、神楽殿などに記されている卍の印。富士講の中興の祖とされる村上光清(むらかみこうせい、1682~1759年)の講印だという。 富士講は、富士山で修行を行った角行(かくぎょう)の教えを弟子が広め、江戸時代中期頃より庶民の間に爆発的に広まり富士登拝ブームを巻き起こした。中でも五代目の弟子となる食行身禄(じきぎょうみろく、1671~1733年)と6代目の弟子となる村上光清が、身禄派、光清派と称して富士講の普及に大きな役割を果たしたとされる。 また江戸期、現在の金額にして数十億円もの大改修を北口本宮冨士浅間神社が行った際、村上光清が寄付金を集めて支援したという。東宮本殿や西宮本殿、神楽殿などに記されている卍の講印は、東宮本殿などの修理が村上光清の寄付金によって行われたことを示したものだ。