富士山と宗教(3) 神社でお経をあげることも、神社と富士講の関係とは?
神さまの前でお経も
富士講と北口本宮冨士浅間神社の関係は深く密接に見えるが、決して”同じ”ではないという。どのような関係なのだろうか? 「江戸時代の富士講は、宗派といったものはなく、光清派か身禄派か、というくらいで、念仏を唱えたり、お経もあげたり、祝詞もあげたり、本当に民間宗教ですので、いろんなことをしていました。富士講の方は北口本宮冨士浅間神社に参拝する、神社の崇敬者ですが、それは富士講の方たちだけではありません。ただ、昔からずっと続いている講社さんなどは神社にとってやはり特別な存在です」と小澤氏は話す。 神楽殿などに記されている村上光清の講印の卍は、神社よりも寺院的なイメージを連想させる。拝殿の正面には、天狗とカラス天狗の大きな面が掲げられているが、これなども神社としてはかなり異質な印象だ。 「神社の中でお経をあげることもあります。いわゆる修験道の方がお参りにくると、神さまの前でお経をあげます。高尾山の寺院の修験道の方たちは毎年、高尾から歩いて富士山山頂まで登る行をしていらっしゃいます。その方たちがお勤めをする時は、当社の拝殿でお経をあげます」と小澤氏。 毎年6月に行われる富士山開山前夜祭の際は、富士講信者らが金鳥居から北口本宮冨士浅間神社を目指して練り歩くが、その列の中にはほら貝を吹く山伏の姿もみられた。
宗派を超えた「富士山信仰のメッカ」
富士講信者や修験道者、その他、霊峰・富士を信仰し登拝する人たちが、富士山に登る前に祈りを捧げる「場」として北口本宮冨士浅間神社があり、そうした意味では、北口本宮冨士浅間神社は宗派を超えた「富士山信仰のメッカ」のような存在といえるのかもしれない。 それは、富士講という民間宗教を生む土壌となり、江戸中期に至って爆発的な富士登拝ブームを引き起こした。多くの人が上吉田を訪れ、登拝の第一歩として北口本宮冨士浅間神社を参拝した。夏には白装束の富士講信者があちこちで見られ、それが上吉田の毎夏の風景だったのだ。 「スバルラインが出来るまで、祖母がこっちに嫁にきて間もない頃だったといいますが、大体、昭和の初め頃ですか、まだまだ通りには白装束を着た人たちが、夏はすごい数、歩いていたという話しを聞いたことがあります」と小澤氏。