【ギャラリー】音速で駆け抜けた34年の生涯。アイルトン・セナの輝かしいキャリアを秘蔵写真で振り返る
■1988年:マクラーレンで初王座
セナは1988年よりマクラーレンに移籍することが決まる。エンジンはホンダ、チームメイトはワールドチャンピオンのアラン・プロストだ。翌年の去就発表の定番であった秋のモンツァでは、監督のロン・デニスも出席して会見が開かれた。 セナとプロストはマクラーレン・ホンダのパッケージで圧倒的な強さを見せることになる。1988年は16戦15勝。この時記録した勝率は、2023年にレッドブルが塗り替えるまで不滅の記録とされた。 セナが初のチャンピオンを決めたのは日本だった。1988年日本GP、セナはスタートでエンジンストールして後方に沈むが、そこから鬼神の走りで追い上げて優勝。タイトルを手中に収めた。
■1989年~1990年:プロストとの確執
当初は友好的だったプロストとの関係も、その争いが激化する中で次第に緊張が高まっていた。その極め付けとなったのが1989年の日本GPだった。首位を争うセナとプロストはシケインで接触。セナはレースに復帰してトップチェッカーを受けたものの、シケイン不通過で失格、プロストに王座が転がり込んだ。この一件はセナの競技ライセンス停止の議論まで発展し、大騒動となった。 その1年後、両者は鈴鹿で再びぶつかった。プロストがフェラーリに移籍した1990年もセナ、プロストによるチャンピオン争いとなったが、日本GPのスタート直後に両者は接触し、今度はセナのチャンピオンが確定した。セナは後に、この接触が故意のものであったと認めている。
■1991年:母国ブラジルで初勝利
今なお語り草となっている、1991年ブラジルGP。レース終盤はトラブルによりほとんどのギヤが使えなくなりながらも、トップの座を守り抜いて優勝。これが母国ブラジルでの初めての勝利となった。無線で絶叫し号泣するセナがマシンから降りられなくなってしまうシーンはあまりにも有名だ。 1991年には3度目の王座を手にしたセナだったが、シーズン終盤のウイリアムズの台頭により、マクラーレン・ホンダの独走時代は終わりを迎えていた。そして翌1992年にはホンダがF1撤退。ウイリアムズは、マクラーレンに代わってF1を席巻し始めた。なおセナは、1991年の時点からウイリアムズ移籍を希望していたが、ホンダの留意によって翻意したとも言われる。