望む看取りができなかった…家族の後悔 「仏はそんなにせこくない」 身近な人を喪う苦しさの理由
夫を自宅で看取った経験から出家し、僧侶・看護師として、現在は緩和ケア病棟でスピリチュアルケアを担当している玉置妙憂(たまおき・みょうゆう)さん。「死」について語り合っていると、自分の「死」よりも、身近な誰かを見送った時の方がつらいのではないか…と話は広がっていきました。(構成/withnews編集部・水野梓) 【画像】「手足がもがれるようなもの」 夜廻り猫が描く家族の死 <SNS医療のカタチTV2024:2024年8月3,4日、有志の医師たちでつくる「SNS医療のカタチ」が配信したオンライン番組。この記事はそのセッションを記事化した3回目です>
自分のためにやっている介護や看取り
水野梓・withnews編集長:両親を見送るとなったときに、満足にしてあげられるんだろうか、望むようにやってあげられるのかとか、「何もしないで」と言われていても救急車を呼んでしまいそうだとか思ってしまいます。 玉置妙憂さん(僧侶・看護師):医療現場で使われているエンディングノートですが、「何もしなくて結構です」と書いている方が結構いらっしゃるんですね。 じゃあ「どこからが延命治療だって思っていらっしゃいますか」という細かい話になると、みんな「はて?」となるわけです。「じゃあ点滴だけはしてください」と言う方もいらっしゃって、「それって延命治療の走りなんだけどな」ということもあるんですよね。 「言葉だけ」になってしまっている部分もあるので、実際に死の間際に向き合ったら、みなさんガタガタするっていうのが本当のところです。 あとは、実は介護や看取りは「自分のためにやっている」という部分が大きいことに気づくことも大事かもしれません。 たとえば親の介護をしている時に、足をさすったり、背中をなでたり…。「お母さんのためにやっている」「お父さんのためにやっている」はずのことが、実は自分が後悔しないためにやっている割合が、結構大きいパーセンテージとしてあるんですね。 でも、「実は自分のためにやっていた」って気がついていないと、イライラして怒り始めてしまう。たとえ「ありがとう」と言われなくても、「私のためにやってるんだもんな」って考えたら平気でしょう。その方がいいです。 その考え方の調整ができていれば、「最期は何もしないでね」って言われていたのに救急車を呼んでしまったとしても、「最期の最期に、私のために呼ばせてもらったよ」と考えたら、お母さんは「それでOK」と必ず言うと思いますよ。