「幻の戦車」を求めて 男たちはなぜ湖底を探すのか?
SKと呼ばれた戦車は本当にチトなのか?
大平さんは、その戦車が「SK」と呼ばれていたと話していたという。彼自身は、それが「チト」という戦車とは認識していなかったのだ。ただし「日本に2両しかない秘密戦車」と部隊内で噂になっていたこと。車体の下部にある「転輪」の数が7個であること、砲塔の形などは覚えていた。大平さんが話した戦車の特徴を元に、田所記者が「この戦車はチトだ」と断定したということだった。 転輪の数が7個の戦車は、他にも75ミリ対戦車自走砲「ナト」があるが、「砲塔の形が違う」と判断。また、日本陸軍には実際に「SK」と呼ばれていた地底戦車もあったが、転輪の数は6個である点が異なっていた。 ただし、決め手には欠ける。「チト」が三ヶ日町に配備されたという公的な資料は、一切見つかっていないからだ。田所記者が取材した1998年当時でも、終戦から53年が経過している。大平さんの記憶が曖昧になっていた可能性もあるだろう。 実際、中日新聞のスクープ記事では大平さんが沈めた3両のうち1両は、シンガポール攻略時に鹵獲したイギリスの兵員輸送車「ウインザー・キャリア」だと報じていたが、イギリス軍に配備された時期と矛盾する。実際には、もっと以前に生産された「ブレンガン・キャリア」の可能性が高いという。田所記者は、こう話す。 「大平さんはウインザーの写真を指したんですが、形状がよく似ているんで間違えたんでしょうね」
「引き揚げる会」が挫折した本当の理由とは?
1999年の田所記者のスクープ記事により、「チトが湖底に沈んでいる」ということは既成事実となった。同月には「四式中戦車を引き揚げる会」が結成される。代表に就任したのは、愛知県豊橋市のプラモデル会社「ファインモールド」の鈴木邦宏社長だった。 戦車の専門家だった鈴木社長は、中日新聞の記事を見て、すぐに田所記者に連絡を取り、戦車を沈めた大平さんに面会した。その結果、鈴木社長は「ここに戦車が沈んでいるに違いない」と確信したという。田所記者は、「引き揚げる会」が結成された経緯を次のように話す。 「やっぱり鈴木社長の熱気に圧倒されたというのが大きいですね。彼は何としても引き揚げたいと熱く語っていました。現物を見た上で、チトの本物そっくりのプラモデルを作りたかったのかもしれません。2人で話しているうちに『僕は報道をやるから、あなたは事務局を頼む』ということになりました」 報道の人間が、市民運動に関わってはいけない。田所記者はそう考えて、「引き揚げる会」の正式メンバーにはならなかった。だが、会の活動を積極的に報道するなど陰からバックアップした。田所記者は、なぜそこまで「幻の戦車」に肩入れしたのだろうか。 「やっぱり沈んでいるものをみたいというのは本能だね。現物が見たくなる。誰だって、タイタニックが沈んでいれば探すでしょう。もちろん、最初にチトを報道したのは自分だし、あそこに沈んでいるのは絶対に間違いないんだから、最後まで見届けたいという気持ちはありました」 懐かしそうに語る田所記者だが、最大の懸念事項があったという。それは引き揚げる資金だった。 「1億円以上かかるという試算が出ていたので、『これはとても無理だな』という諦めはあったんです。調達のあてはないけど、運動をPRすることで、誰か篤志家がポンと数億円を出してくれることを願っていました。自衛隊の訓練名目で、国の予算で引き揚げできないかというのも考えました。当時、衆院議員だった越智通雄(おち・みちお)さんの兄が戦車の乗組員だったということを聞いて、彼に手紙を出したこともありました。『弟に話してみる』と返事が来たけど、それっきりでしたね」 1999年3月24日には、三ヶ日町議会で鈴木浩太郎・三ヶ日町長(当時)が引き揚げに前向きな答弁したことを報道。「幻の戦車」をめぐって精力的に動いていた田所記者に突然、転機が訪れた。5月1日付けで取材部門の報道部から、記事の校正をする校閲部に異動になったのだ。 「あとから上司に聞いた話では、浜名漁協から中日新聞の幹部に『お前のところの記者が、浜名湖の戦車を引き揚げようとして漁協は大変迷惑している』と苦情が来たのが原因で、取材記者から僕を外したようです。漁協は、浜名湖のカキやノリの養殖に影響が出そうな話にすごく敏感でした。僕が連日、戦車の報道をしたことが裏目に出て、漁協は『今にも引き揚げられるかもしれない』と焦っていたようです」 8月10日、「引き揚げる会」は、チトの引き揚げを求める6088人分の署名を三ヶ日町長に提出した。朝日新聞が翌日、全国版の夕刊で報じたにも関わらず、中日新聞は黙殺している。 資金繰りのメドもつかないまま、旗振り役であった田所記者が内勤で動けなくなったことで「引き揚げる会」の活動は停滞していった。諦めきれなかった田所記者は、軍事雑誌「丸」1999年12月号に大原亮のペンネームで「幻の戦車」の記事を寄稿したが、資金を出してくれる篤志家は現れなかった。2003年10月、「引き揚げる会」は、正式に活動を停止した。 田所記者は、校閲部で仕事を続けたのち、2015年2月末に62歳で中日新聞を退職。現在はフリーの立場で、「チト」の顛末記を雑誌に書くことを構想しているという。