老後に突然「孤独」になってしまった人が犯しがちな「大失敗の正体」
若きノット・ウェル・テールの悩み:理解されたくないのに理解されたい矛盾
次に「他人が自分を理解してくれない」という種類の孤独をみてみる。 自分に関心を払ってくれる人が自分の周囲に十分なだけ存在している、という恵まれた状況であっても孤独はやってくる。自分が周囲から本当には理解されていない、あるいは共感されていないという悩みを持つ場合などだ。 こうした孤独な人の典型的なパターンは次の通りである。 漠然と「他人はきっと自分のことを理解してくれないだろう」という思いがある。あるいは、意図的に「誰にも理解されない孤高の天才でありたい」という思いがあるのかもしれない。いずれにしても、自分が何を考えているのか、どんなことで悩んでいるのか、軽はずみに他人に自己開示するなんてとんでもない、と考えてしまっている。 とはいえ社会生活に他人はつきものだ。 そこで、仕方がないから、図書館においてある現代思想系の雑誌で仕入れた単語を自分でもよくわかっていないような順番で並べてみて会話する。「自分がやりたいのは思考と行動の二元論からの脱構築なんだと思っていて(こうした人はなぜか「思っていて」という言葉が好きである)。ほら、行動するまで結果って分からないじゃん? 量子力学的な、さ。メルロ=ポンティも似たこと言っていて」といった感じだ(私が大学の文芸部に在籍していた時分によく使っていた手法である)。 この発話を要約すれば「為せば成る」というだけだが、それだと格好がつかない。 しかし、そのうちにそんな自分が嫌になってきて、どうしても誰かに自分の本当の考えや悩みを聞いてほしくなってくる。「本当は就職活動が不安だ」という悩みかもしれないし「美容整形したことが誰にもバレないくらい自然な美容整形をしたい(それなら変化がないわけで本当は意味もないのだが)」という奇妙な悩みかもしれない。 唐突におそるおそる小出しでこうした話題について家族や恋人や友人と話す。だが、相手はその話の表面的な部分しか理解してくれないことがほとんどだ。 そもそも小出しの情報すぎて相手は何が何だかわからない。理解されなくて当たり前である。しかも、普段から意味がわからない話をしているため、相手には自分についての前提知識が何も共有されていないのだからなおさらだ。 そうして「やはり周囲は自分を理解できない(天才は孤独だ? )」とあきらめる。 営利・非営利企業の経営者もまた似たような孤独感にさいなまれることがある。経営者は、ある意味では幸せなことに、自分のことを一定程度は尊重して関心を払ってくれる人たちに囲まれている。経営者仲間、取引先、従業員などだ。下手すると経営者の話に一番興味がないのは、本来は一番近い存在のはずの家族かもしれない。 さて孤独な経営者は次のような思考をしがちである。 まず自分はある分野の経営の専門家だという自負がある。だから、別の分野の経営者と交流しても得られるものなどないと決めつける。経営コンサルタント/経営学者なんてもってのほか、やつらは実業を何も知らないと批判する。 同じ業界どころか同じ組織で長年一緒に働く従業員に対しても、「だめだめ、あいつらは経営のつらさはわかっちゃいないんだ」と突き放す。かといって同分野の経営者は敵だからそもそも話にならない。 となれば経営についての相談は誰にもできなくなる。 これなら「やっぱりこの会社の経営は自分にしか無理な仕事だ」という自負心は満たせるが、常に一抹の不安が消えない。経営のすべてが独断になると自分が処理しなければいけない問題の総量が増え、高負荷のもとで間違った意思決定をする確率も高まるからだ。どんなに優秀な経営者であろうとひとりで森羅万象の知識を網羅することなどできない。 酒に酔いながら「経営者は孤独だ」とつぶやく人の出来上がりだ。白状すれば私も学生起業した当初は高慢と偏見のせいで誰にも悩みを相談できなかった。 しかし、自分の話を聞いてくれる人が周囲に存在していながら、誰からも理解されず孤独になる人は、ここで挙げた例のように「理解されないための行動」をとっているだけかもしれない。 当たり前だが、そもそも自己開示をしなければ他者が自分のことを理解してくれるはずがない。自分の置かれた状況に関しての知識を共有しなければ、どんな人であろうと相談に乗るのは不可能だ。他者を尊重し他者から学ぼうという姿勢を持たなければ、他者がこちらのことを知ろうと思ってくれるはずがない。