戦前から戦後の転変に筋をとおすー東京文化会館と徹底したモダニズム
前川と丹下
前川國男という人は、その作品とは別に、あるいはそれ以上に、「建築家の人格」という点で独特の評価を得ている。 軍国主義、国粋主義の時代、多くの建築家が時勢におもねり、コンクリートの建築に城郭風の傾斜大屋根を載せる、いわゆる「帝冠様式」を試みたのに対して、前川は、日本趣味と東洋式が求められた帝室博物館のコンペに、落選覚悟で陸屋根(平たい屋根)の案を提出するなど、徹底してモダニズムを通そうとした。 それが戦後、軍国主義を否定する左翼的な論陣において高く評価されたのだ。特に、時勢に敏感に反応してスーパースターとなった丹下健三(前川の事務所で修行した)を論難する批判者は、その対照として前川を祭り上げた。分かりやすくいえば建築界に、資本主義的な右派は丹下、社会主義的な左派は前川、という構図があった。のちの丹下と黒川(紀章)のように、建築界では師弟の対立もままあることなのだ。 建築設計において、思想を貫くべきか時勢に応じるべきか、という議論は専門的にならざるを得ないのでここでは深入りしないが、建築には、そういった時代精神が現れるものであり、建築家にはその様式選択の決断が迫られるのである。 筆者は、前川の真骨頂を、丹下のような派手な造形ではなく、細部(ディティール)の設計をしっかりと詰めることによって、訪れる人々を包み込むような柔らかい空間を創出することにあると考える。両者ともル・コルビュジエから出発しながら、丹下は前衛性創造性を重視する方向に、前川は人間性公共性を重視する方向に進んだのだ。 前川が、帝室博物館(現在の東京国立博物館)のコンペに意識的に敗れて以後、国立西洋美術館、東京文化会館、東京都立美術館など、上野の森の重要建築の多くに関わることになったのも不思議な因縁である。
戦中と戦後に筋を通す
前川は、左翼論客に持ち上げられたが、傲岸不遜という評価もあり、ゴルフが趣味で、父は内務官僚、弟は日銀総裁という家柄で、決して庶民的な人物ではなかった。 筆者は直接の面識がないが、叔母の篠田桃紅が比較的親しくしていたので、折々の口吻からその人柄が伝わってくる。頑固というほど、筋の通ったところがあったようだ。 戦中から戦後へという価値観の大転換に筋を通して生きる。 われわれの世代には経験できないことだが、世に小さな転変は多い。人は常に、筋を通すことと時勢に応じることの選択を迫られているのだ。世俗に生きることの苦悩ではあるが、その苦悩を感じない人より感じる人の方がマシであろう。 筆者の人生の筋はだいぶ曲がってしまったが、せめてこれからここに書くことぐらいは何とか筋を通したいものだ。