戦前から戦後の転変に筋をとおすー東京文化会館と徹底したモダニズム
ホール建築と建築家
音楽会場、劇場、オペラハウスなどといったホール建築は、華やかさがあって、建築家が一度は手がけたいものであるが、易しくはない。 まず音響条件が難しい。建築に遮音性が必要とされるばかりでなく、ホール内部の形と仕上げ材による反響が重要である。劇場はセリフの明瞭度が要求されるので短く、音楽ホールは響きをよくするため長くという具合に、要求される残響時間が異なるのだ。ホールの形も、室内楽は客が演奏者を囲む形のシューボックス型がいいとされ、劇場は可視線と肉声の届く範囲が重視され、本格的なオペラハウスとなれば、舞台装置の関係で、奥と脇を含め客席以上の広さをもつ舞台が必要とされる。 音楽や演劇の専門家は、質を重視して、収容人数が多すぎるものを拒否するが、興業家や知事や市長といった権力者は、質より量、大人数が入ることを好む。建築家には、そういったさまざまな要求の交通整理まで要求されるのだ。 そのことから全国の県や市の文化会館というものは、多目的ホールとなりがちだが、「多目的は無目的」ともいわれ、レベルの高い演者と観客には評判が良くない。
夢の舞台
また建築としては、外壁面が閉鎖的になって周囲を圧迫する恐れもある。つまりホールとしての機能を満足させるための完全な箱であることと、都市に開かれた魅力的な空間をつくることの相克に悩まされるのだ。美術館は代表作になりやすいが、ホール建築はなりにくい。したがって高度成長以後、ホールの設計は、アトリエ建築家よりも組織の設計が多くなる。自然、機能重視の地味な箱型建築になりがちであった。 とはいえ、音楽会場や劇場は、人々にとって夢の舞台である。 建築には、その夢にいざなう入り口としての、ファンタジックな魅力も求められるのだ。かつてのヨーロッパのオペラハウスは、絢爛たるバロック風の装飾を有し、着飾った観客の社交の場でもあった。建築も観客も、舞台と同様に、夢をもって観られる存在だったのである。 日本でこういった要求に応えられる建築家は少ないが、例外的な人はいた。村野藤吾だ。独特の意匠力をもつこの建築家は、東京の日生劇場、大阪の新歌舞伎座(旧)、宇部市民館(渡辺翁記念館)など、時にモダニズムを逸脱するほどの装飾性をもつ名作を残している。 前川國男は、村野のような装飾的意匠によってではなく、あくまで機能主義的なモダニズムに立ちながら空間の風格を保とうとした。そういった、モダンの前衛性と迎賓の風格性を併せもつことにおいて、東京文化会館はホール建築の高峰としての地位を保つのであり、その評価が前川に他県の文化会館も、また東京都立美術館も手がけさせることになったのであろう。