手塚治虫の師匠 漫画家・酒井七馬に迫る講演会
なんでも器用にこなした大阪人漫画家
戦後を迎えると、「赤本」と呼ばれる大衆的漫画本の出版が大阪で相次ぐ。市中央区の松屋町かいわいに、赤本出版社が群雄割拠。赤本漫画は水準にむらがあった半面、多くの漫画家を発掘育成するインキュベーションの役割を担った。 「酒井七馬は大阪人らしく、いろいろなジャンルの仕事を器用にこなした。近年、大阪のクリエイターやクリエイター志望者が仕事を求めて上京する傾向がある。酒井七馬は生涯大阪を離れなかったが、かつては大阪でも漫画家がなんとか稼いでいけるだけの仕事があったのではないか」(中野さん) 戦時中の酒井七馬は漫画界の翼賛会的な団体の役員を務め、戦意高揚のための画を描いたことがあったが、戦後は一転してGHQ将兵の似顔絵を手掛けた。中野さんは思想的な転向などとつなげる文脈でとらえるよりも、時々の要請に応えて生きる糧とする自然な成り行きに従ったからではないかと、冷静に分析する。 結果的に酒井七馬がGHQ将兵を通じて早々とアメリカ文化に接することで、アメリカンコミックや西部劇の手法を、漫画や紙芝居にいち早く取り入れることができた。
関西漫画史を織り上げたタテ糸
酒井七馬の生涯を丹念に追跡してきた中野さんだが、酒井が漫画史の中で占める位置を確定するのは難しいと説く。 「歴史は何かを始めた人物など、一部の改革者だけを語りたがる。しかし、改革を成す者が出てくるためには、改革に至るタテ線が必要だ。酒井七馬は漫画でもアニメでも主流を形成することはなく、どのジャンルでも、その他大勢のひとりだったかもしれないが、決して不幸な境遇を送ったわけではない。生涯を通じて多様な人材と交流があったことから、関西漫画史を織り上げる重要なタテ糸だったとはいえるだろう」(中野さん) 歴史をつくるのは、野心を秘めた改革者だけではない。会場にいた酒井七馬の甥、隆道さんが幼いころ、叔父七馬から画の手ほどきを受けた思い出を披露する。 「戦時中のことですから、画のテーマは軍艦です。私が軍艦を横からながめた画を描くと、叔父は軍艦が船首を手前に向けて、斜めに進んでくるように描きなさい、波を蹴立ててねと。おかげで学校の評価は優でした」(酒井隆道さん) 子どもにも分かりやすい助言だ。中野さんがホワイトボートに軍艦の画を描いて、隆道さんの思い出話をフォローする。会場に酒井七馬が舞い降り、ホワイトボードの軍艦が今にも白波を立てて動き出しそうな瞬間だった。 資料展示「関西マンガ界の伝説 酒井七馬とその時代」は20日まで。詳しい情報は府立中央図書館の公式サイトで。(文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)