国産ロケットH3に宿る「ロケットの父」糸川英夫氏の哲学、その原点となった「母の教え」とは
■ 短期間でイノベーションを生む「人生24時間法」 ――ペンシルロケットは1955年の誕生後、わずか数年で高度200kmを超えて電離層に到達したことで世間を驚かせました。短期間でイノベーションを実現した背景には何があったのでしょうか。 田中 そこには糸川氏が提唱する「人生24時間法」が関係しています。糸川氏は目標を決めると、そこに到達するまでの階段を設計するのです。 例えば、ロケット開発のプロジェクトでは、ペンシルロケットに始まり、ベビーロケット、カッパロケット、ミューロケットという段階がありました。実は、これらはロケット開発を始めた当初から具体的に描かれていたものなのです。 この他にも、糸川氏が定年後に始めたクラシックバレエの例があります。当時、「東大のロケット博士が62歳でバレエ学校に入学した」とマスコミに騒がれましたが、糸川氏は「帝国劇場の公演に出る」という途方もないゴールを掲げ、黙々と学校に通いました。 バレエでは片足を高く上げる必要があるため、股関節を柔らかくしなければなりません。ここでは毎日積み重ねた新聞に足を置き、一日ずつ新聞紙を増やして高くすることで、最終的には完全に足が上がるようになりました。結果として、帝国劇場での公演に出演することができました。 少しずつしか足が上がらないため、他人からは努力していないように見えるかもしれません。しかし、「目標に到達するための最短距離」を考えた数ミリの階段を設計し、毎日10分程度でも続ければ、いつかはその分野のプロになれる、というのが糸川氏の人生の知恵なのです。
■ 糸川氏が戦後にジェットエンジンを開発しなかった理由 ――糸川氏は戦時中、戦闘機を開発していましたが、戦後は航空機に使われるジェットエンジンの開発は行わず、ロケットの研究に着手されました。糸川氏がロケットを選んだ背景には何があったのでしょうか。 田中 既に欧米に存在するジェットエンジンの開発に抵抗があったからです。糸川氏のこうした思考を、本書では「反逆の精神」と呼んでいます。 例えば、零戦(零式艦上戦闘機)を開発した堀越二郎氏は、ドイツの大学で生まれた「プラントルの翼理論」(翼を楕円形に近似する理論)を零戦に実装しました。東京大学でも標準翼理論として教えられ、世界中がプラントルの翼理論を採用する中、糸川氏は「反逆の精神」を発揮して新たな理論に挑戦し、「一直線の翼」を設計しました。この翼は九七式や隼、鍾馗(しょうき)といった戦闘機に採用されています。 そして戦争が終わり、1951年のサンフランシスコ平和条約の締結後、日本国内でも再び飛行機が開発できるようになりました。ここで糸川氏が考えたのは「飛行機は他の人でも開発できる」「前例がないからこそ、ロケット開発に挑戦しよう」という発想でした。 もう一つ、ジェットエンジンではなくロケットの開発に進んだ理由として、糸川氏が抱いていたものに「社会的責任(=使命感)」があります。当時の日本国内で航空機の開発に携わっていた人たちは、プラントルの翼理論の採用にあるように、学校で学んでいない未知の領域には行けない、と考えた糸川氏は「日本が世界に後れを取らないためには、自分がロケットを開発するしかない」と決意したと思われます。 この社会的使命感は、糸川氏の少年時代に培われたものです。糸川氏が小学生の頃、勉強をサボっていたところ「3軒隣の五郎君は耳が不自由で身体が弱いんだから、勉強を教えてあげなさい」「あの子が勉強を聞きに来たときに、あなたが教えてあげられなかったら、かわいそうでしょ」と母親に諭されたことで、勉強に打ち込むようになりました。 そして、母の教えをきっかけに、糸川少年は成績を伸ばし、家に訪ねてくる友人の五郎君に勉強を教えるようになったといいます。母の言葉が「自分しかできないから、自分がやるしかない」という社会的使命感を育み、糸川氏を動かし続けていたわけです。 ――反逆の精神や社会的使命感が糸川氏のイノベーションを生んでいたのですね。 田中 H3ロケットが誕生する以前、H1ロケットに使われているエンジンは米国のライセンスを受けて作られていました。つまり、元は米国製でした。これでは零戦と同じで、海外の技術を活用している分、そこから生まれるイノベーションにも限界が生じます。 一方、自分たちで考え、新たに生み出した技術やアイデアは成長し続けます。事実、糸川氏は新たに生み出した分野で数多くのイノベーションを連発しました。たくさんの失敗を重ね、全て自分たちの頭の中で理解できているからこそ、イノベーションを生み出し続けられるのだと思います。
三上 佳大