移り変わる「米国・イラク」関係 イラン・イラク戦争後の変遷
8月8日、米軍がイラク北部でイスラム過激派「イスラム国」(IS)の空爆と、少数派ヤジード教徒などへの人道支援を開始しました。その一方で、オバマ政権は陸上部隊の派遣は検討していません。今回の作戦は、現在の米国とイラクの関係を象徴します。 【図解】<中東問題>複雑な対立の構図を整理する
米国とイラクの接近
1979年まで、中東での米国の軍事拠点はイランでした。しかし、専制的な皇帝のもとで世俗化が進むことへの危機感から、イスラム聖職者を中心に、1979年1月に「イスラム革命」が発生。イランにはシーア派の一派で、預言者ムハンマドの従弟アリーに始まる12人のイマーム(最高指導者)を聖人に位置づける「12イマーム派」を国教とするイスラム国家が樹立されました。その後、米国による皇帝の亡命受け入れをきっかけに同年11月、テヘランの米国大使館を暴徒が占領。これにより、米国から「テロ支援国家」に指定されました(人質が解放された1981年に一旦解除された後、大量破壊兵器を入手しようとする疑いなどから1984年に再指定)。 一方、同じく1979年にイラクでは、サダム・フセイン大統領が権力を掌握。「イラク・ナショナリズム」を強調しながらもスンニ派を支持基盤としていたフセイン政権は、イランによる「革命の輸出」を恐れる点で、米国と一致しました。 1980年、国境をめぐる争いから、イラクがイランに侵攻(イラン・イラク戦争)。イランの勢力拡大を抑えるため、米国はイラクに接近。イラクの「テロ支援国家」指定を解除し、1984年に国交を樹立した後、大規模な軍事援助に踏み切ったのです。
米国とイラクの全面衝突
停戦を求める国連決議を受け、イラン・イラク戦争は1988年に終結。しかし、この間の米国とイラクの関係は、お互いに利用し合うものでした。そして、戦争中にイラクは米国などの援助で、中東でも指折りの軍事大国になっていたのです。 冷戦終結の翌1990年、イラクは「歴史的領有権」などを主張してクウェートに侵攻。これに対して翌年、国連決議を受けて米軍を中心とする多国籍軍がイラク軍を攻撃し、クウェートを解放(湾岸戦争)。しかし、フセイン政権は生き残り、クウェート占領を受けてイラクを「テロ支援国家」に再び指定した米国との緊張は続いたのです。 同時多発テロ事件の翌2002年、米国ブッシュ政権はイラン、北朝鮮と並んでイラクを「悪の枢軸」と呼び、「イラクが大量破壊兵器を保有し、アル・カイダと繋がりがある」と強調。2003年に国連決議を経ずにイラクを攻撃し、フセイン政権を打倒しました。