【山手線駅名ストーリー】 江戸の昔は軍事拠点だった!? 今はアメ横の入り口としておなじみの駅のなは…?
収入から支出を引くと、計算上は66万5000円が残るが、子どもが成長すれば教育費もかさみ、物価の変動もあった。生活はぎりぎりだった。 そこで「内職」に精を出す。江戸時代に下級武士が内職するのは一般的で、傘張り、竹細工、金魚の養殖、盆栽など多岐にわたっていたが、御徒に人気だったのは朝顔の栽培だった。
文化の大火(1806)後、江戸市中に空き地ができたのを利用し、植木職人たちがさまざまな朝顔の品種改良・栽培をはじめた。「変化(へんげ)朝顔」といわれた珍しいタイプが人気を博した。花弁が風車や、篝火(かがりび)のように開くのが特徴だった。 これが御徒たちに伝わり、組屋敷の中庭で栽培し、販売するようになった。やがて約2キロメートル離れた入谷鬼子母神(真源寺)で朝顔市が立つと、御徒が育てた鉢植えは露店に並ぶようになった。内職による収入は、年間約3両(30万円)だったという。
春日局の名前を冠した「春日通り」
御徒町駅前を通る春日通り──この通りの名称は、徳川3代将軍の乳母を務めた春日局(かすがのつぼね)から来ている。 本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の家臣・斎藤利三の娘だったお福が、過酷な戦国時代を生き抜き、家康に抜擢されて家光の乳母となり、のちに春日局の称号を賜ったのはよく知られている。 家光からの信頼はことさら厚く、死去したのちの法号を取った臨済宗の寺院・麟祥院が、駅から約1キロメートル西にあり、春日局が眠っている。寺の前の公園には銅像もある。
麟祥院から約400メートル、徒歩5分の場所にあるのが菅原道真を祀った湯島天満宮である。受験シーズンになると多くの学生が訪れるが、ここでは知られざる一面を紹介したい。「講談高座発祥の地」の碑である。 江戸期、神社は芝居小屋が多く建ち、庶民の娯楽の場だった。湯島天満宮では講談や落語が催された。 講談は戦国時代の合戦を題材としたものが多い。徳川家康が登場する三方ヶ原の戦い(1573)や、大坂の陣(1614~15)などの話は人気があった。ところが、家康の戦記を庶民が同じ高さで聞いては畏(おそ)れ多い──ということで、高座が設けられたのである。 碑石は、こう刻む。 「文化四年(1807)、湯島天満宮の境内に住みそこを席場としていた講談師伊東燕晋(いとう・えんしん)が家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺一間四面の高座常設を北町奉行小田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まり」 江戸時代に大衆を支配していた「神君」家康の威光を物語る。 御徒町駅からアメ横商店街の雑踏に分け入ること徒歩2分に、徳大寺がある。開運の摩利支天を祀(まつ)るお寺として知られている。創建は1653(承応2)年。聖徳太子作と伝わる摩利支天が鎮座している。 摩利支天は武田信玄に仕えた山本勘助が念持仏(ねんじぶつ/身辺に置いて護り神とする小型の仏像)としていたという。赤穂浪士を率いた大石蔵之助も、吉良邸討ち入りの際に持っていたといわれ、武士にとっては軍神だった。そうした逸話が庶民に広がり、やがて開運厄除・家内安全・商売繁盛の神としても信仰を集め、今も下町で存在感を放っている。 御徒町には、江戸時代の名残が色濃い神社仏閣が少なくない。いずれも駅から1キロメートル圏内に点在しており、散策にはもってこいの街といえる。