【山手線駅名ストーリー】 江戸の昔は軍事拠点だった!? 今はアメ横の入り口としておなじみの駅のなは…?
そもそもは東北からの敵に備えた軍事拠点
御徒町の地名の由来も、江戸時代の武士「御徒」にさかのぼる。 御徒は「御士」(かち)ともいわれた。「歩行衆」と書いて「おかちしゅう」と読む例もあり(正保年中江戸絵図)、騎乗(馬に乗る)を許されていない下級武士である。身分は御家人で、役目は将軍が外出する際の行列の先導・警護や、江戸城中の雑用だった。 御徒はそれぞれ「組」に属していた。これを「御徒組」という。頭(かしら)の下、江戸城本丸に15組、西の丸に5組あり、各組は組頭2人、御徒28人で編成され、組単位で屋敷を拝領していた(駅名で読む江戸・東京)。その組屋敷があったことから、御徒町と呼ばれるようになったのである。 なぜ、この一帯に御徒の組屋敷があったかというと、日光街道の第一の宿場である千住まで約1里(4キロメートル)だったからだ。
日光街道は奥州街道を経て東北に通じている。万一、東北から江戸が攻められたとき、江戸城を守って盾となる任務を担っていたのが御徒であり、つまり彼らの居住地はそもそも軍事拠点だった(台東区史)。御徒の集住地は本所や深川にもあり、同じく北からの敵の襲来に備えていた。 だが、江戸時代も4代・家綱(在位1651~80)が将軍に就いて文治政治の時代に入ると、江戸で戦いが起きる可能性はほぼ消滅した。敵を防ぐ必要もなくなり、御徒の仕事は行列を先導するなどに過ぎなくなった。 禄(給料)も低く、年収70俵5人扶持の蔵米知行(給料として米をもらう)だった。御家人はこの米を札差(ふださし/米を担保とする金融業者)で換金していた。 70俵5人扶持を現在の価値に換算すると、 ・70俵=24.5石=1石を1両として24.5両 ・5人扶持=8.9石=同8.9両 ・1両を10万円と換算 合計334万円 歴史学者の山本博文は、家族構成を妻・子ども1人、使用人2人の計5人としたうえで、支出も計算している(江戸の銭勘定)。 ・家族5人が食べる米 年間3.75両分=37万5000円 ・衣服や生活費などその他の年間支出23両=230万円 合計267万5000円