アートディレクター・山崎晴太郎「経験と知識は、すべてがクリエイションに繋がっていく」新連載! 余白思考デザイン的考察学
「山崎晴太郎の余白思考 デザイン的考察学」第1回 デザイナー、経営者、テレビ番組のコメンテーターなど、多岐にわたる活動を展開するアートディレクターの山崎晴太郎さんが新たなモノの見方や楽しみ方を提案していく連載がスタート。自身の著書にもなった、ビジネスやデザインの分野だけにとどまらない「余白思考」という考え方から、暮らしを豊かにするヒントを紹介していきます。第1回は山崎さんの紹介とともに、デザイナーになるまでの紆余曲折した道のり、またそれらが現在とも繋がっていくエピソードなど、これまでを伺います。 「アートディレクター・山崎晴太郎さん」を写真で紹介
演劇体験から始まった“表現”することの面白さ
──山崎さんのプロフィールを拝見すると、絶えず、“表現する場”をボーダーレスにご自身の中に取り入れていくアクティブさに驚かされます。今回はその1つひとつに迫っていきたいのですが、“表現”することの最初の体験は演劇だったそうですね。 山崎 そうです。英語演劇を始めたのは3歳の時でした。表現の面白さを知り、当時から漠然とこの世界でやっていきたいという思いを持ち始めていました。それが自分の中でより明確に固まったのが高2の時。きっかけは劇団四季の『ライオン・キング』を観たことです。舞台上で見せる動物(キャラクター)の動きや演出方法など、どれもが斬新で、衝撃的で。「表現の世界って、こんなにもいろんなことができるんだ」と思ったんですね。改めて自分も何かしら表現する職に就きたいと思いましたし、その気持ちは今も芯として強くあります。 ──演劇の世界だと役者や演出家などの道がありますが、結果的にその方向には進まれなかったんですね。 山崎 演出家になりたいという思いは頭の中にありました。ただ、あくまで選択肢の一つという考えで、もっといろんな表現手法に目を向けようという思いが強かったんです。大学も一般的な私学の立教大学を選んだのですが、これにも理由があるんです。演劇表現の道に進むのであれば、美大や日芸(日本大学芸術学部)に進むという選択肢があります。でも、僕が生み出し、届けたいと思っている表現の相手は限られた特別な人たちではなく、いわゆる普通の生活を送っている方々。ですから、表現を届けたい人たちの気持ちを理解するために、なるべく同じ経験をしたいと思い、それで、立教大学に進み、写真を学びました。 ──写真を選ばれたのはなぜでしょう? 山崎 これにはちょっとした偶然と面白い出会いがあったんです。話が少し前後しますが、僕は10代の頃、たくさんの本を読んでいたんです。……いや、読まされていたというほうが近いんですけどね(苦笑)。特に高校時代は紀行文が好きで、沢木耕太郎さんの『深夜特急』や辺見庸さんの『もの食う人びと』、開高健さんの『オーパ!』シリーズといった作品をよく読んでいました。その影響もあり、大学受験が終わってから入学式までの時間を使って、青春18きっぷで日本中を巡る旅をしたんです。その時、たまたまローカル線のボックスシートの向かい合わせで座った方が写真家の方で。僕も長旅で手持ち無沙汰だったこともあり、写真やカメラについていろいろ教えてもらったところ、すごく興味が湧いたんです。演劇の世界で演出家になることも考えていた頭の中に、突然、ポンっと“写真も面白そうだぞ!”という思いが湧き出てきて。思い立ったらすぐ行動だ! と、旅から帰ってきたその日に写真家の方に教えてもらった中野のフジヤカメラに行き、ニコンのFE2を購入しました。 ──そこまで山崎さんの心を突き動かした写真の魅力とは何だったのでしょう? 山崎 それが、あまり詳しく覚えていないんです(笑)。でも、話をしてくれている時の写真家さんの顔がすごく輝いていたのははっきりと覚えています。自分の仕事を楽しそうにいきいきと語れる大人って、そうそういない。10代の僕はそこにうらやましさを感じたんだと思います。それに、その頃から僕には、演劇にしろ、写真にしろ、表現と呼ばれるものは最終的にすべて必ず繋がっていくはずだという思いがあったので、興味を持ったものに対してはとりあえず全部経験してみようという思いがあったんです。 ──ということは、大学在学中から写真以外のことにも手を伸ばしていたんですか? 山崎 そうですね。高校時代からストリートダンスもやっていたので、その流れで、大学ではクラブイベントをオーガナイズするチームにも所属していました。渋谷や六本木で、いろんなダンサーやDJ、ラッパーたちがパフォーマンスする場を作っていたんです。ただ、イベントを開催するとなると、それを宣伝するためのポスターやフライヤーが必要になる。そのグラフィックデザインも担当していました。また、当時はステージに映すVJが流行りだしていた時期でもあったので、その映像編集もしたり。大学では写真を学び、プライベートではダンスチームに入り、同時にグラフィックデザインや映像も作る。今思えば、なかなかに多忙な大学1、2年生でした(笑)。 ──すでに現在のお仕事とリンクするところがたくさんありますね。その頃、写真はどのようなものを撮られていたのでしょう。 山崎 当時はジャーナリスティックな写真に憧れていました。報道写真家・一ノ瀬泰造さんの著書『地雷を踏んだらサヨウナラ』を読んで、なんてかっこいいんだと思ったりして。マグナム・フォト(※ロバート・キャパらによって1947年に結成された、世界を代表する国際的な写真家のグループ)に入りたいと思っていましたね。その頃から、“写真やデザインの力で人の心は変えられる”、“正しいことは必ず伝わる”ということを信条にしていたんです。それもあって、先ほどお話ししたクラブイベントでも、自分がフィリピンで撮影したストリートチルドレンなどの写真をフロアに貼ったりしていました。また、NPOやNGOの方たちとも繋がりを持っていましたので、彼らの活動と一般の若者たちの心を結びつけるにはどうすればいいかということも常に考えていました。ただ、そうした思いを抱く一方で、今度は映像を撮りたくなったんです。今でも目標の一つなのですが、昔から映画を撮るのが夢で。大学で写真を学び、写真を連続させれば映像になるんだということに改めて気づいたので、その知識を活かして新しい表現を学ぼうと、大学3年生の時にアメリカに留学することを決めました。 ──ニューヨークフィルムアカデミーですね。なぜ、国内ではなくアメリカの学校を選ばれたのでしょう? 山崎 日本映画が好きだったんですが、当時はハリウッド映画が全盛で。相手を倒すには、まず敵の映画の理論を学ぶのが一番だと思ったんです。“敵”なんて言い方をしましたけど、その時のクラスメートとは今でもすごく仲が良いですよ(笑)。 ──当時はどのような映像を? 山崎 海外の音楽やMVが好きだったので、最初はそれに影響を受けたような作品を提出したんです。すごく怒られました(笑)。「君の“魂”はどこにある?」「自分の内側から生まれ出る、君にしか出せない表現はなんだ?」と批判されて。ただ、その後、アートフィルムのような作品を撮ったところ、非常に大きな評価をいただきました。性の尊さや純血さを現した概念的な内容で、僕としては色をテーマに男女の関係性を描いたつもりだったんです。でも、「これは善と悪の象徴だ」「私には人種を表現しているように感じる」と解釈する人がたくさんいて。 ──発想や想像が豊かじゃないと生まれない解釈ですね。 山崎 僕も、“人のバックボーンによって、こんなに異なる解釈をするのか”と驚きました。ただ一方で、やはりそうやって自分にしかできないものを表現していかないと世界では勝負できないんだということを学んだ経験でもあります。“表現”の繋がりで、生け花や水墨画も30を超えたタイミングから始めたのですが、それらはすべて自分を100%出せるもの……つまり、自分のルーツやアイデンティティを表現の中に取り込むために始めたことなんです。自身の中から生まれ出るものを何よりも大事にしなければいけない──そうした考えを確立したのが21歳の時でした。
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