《ブラジル》平安貴族も食べた「芋粥」 実は粥ではなく高級デザート サンパウロ在住 毛利律子
4、5日後、五位と藤原利仁は馬に乗り出かけることになった。五位は利仁に行く先を聞くが、答えてくれない。盗賊の出る地域まで来て利仁は、ようやく敦賀まで行くことを伝える。 京都から敦賀まではとんでもなく遠く、盗賊がでる地域を二人で通ることに五位は不安で仕方がないが、利仁を頼りに進むしかない。そして、利仁の館に着く。 その一間で寝ることになったが、五位は何年も「芋粥を飽きるほど食べたいと辛抱強く待っていたが、それが現実になりそうだ。何か支障が起きて食べれなくなったら良いが…」と惨めな思いで一晩過ごした。 旅の疲れと気苦労で寝過ごしてしまった。雨戸を開けると、広庭で大勢が、大量の芋粥を巨釜で作っていた。そこはまるで、戦場か火事場のような騒ぎであった。五位は、そのさまを目の当たりにして、すっかり食欲減退してしまった。 出来上がった芋粥を「どうぞ、遠慮なく召上れ」と言われても、一口も進まない。「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致しました。――いやはや、何とも忝うござつた」。五位は、しどろもどろになる。 そして五位は、芋粥を食べる前の彼自身を、懐かしく思うのだった。それは、芋粥を飽きるほど食べたいという慾望を、唯一人で大事に守っていた、幸福な自分である。見果てぬ夢を叶えたいと強く思っていた時が、どれほど心が満たされていたことか――芥川は、以上の様に物語を締めくくっている。 長年密やかに温めてきた自分の夢が、強引に一人の権力者の善意か、悪意か、いたずらか、によって現実になってしまった虚しさに、拉がれる五位の心がなんと痛ましいではないか。
古代・中世の芋粥の作り方
最後に、五位が恋焦がれた「芋粥」の作り方は次のようなものである。 味煎(「甘葛」の煎じた汁)一合に水二合を涌かして、署預(とろろ)の皮を剥いで薄く切り、さらさらと煮る(煮すぎないということ)。鍋は石鍋。食べる時には、小さい銀の尺子で盛って進める。銀の匙をつけるという説もあるとみえる。作り方も、食べる時の作法も、古代・中世、鎌倉時代まで類似している、という。 以上のようにこの芋粥は、粥といえども、いわゆる「コメの粥」ではなく、山の芋、自然薯の類と考えられている署預(とろろ)が材料の、当時の貴重な甘味の進上品であったのだ。 このデザートが、どのような場で振舞われたかというと、前述したように、正月の大饗宴や天皇即位式、節句祝いなどのフルコース料理の最後に供されていた、との記録が残っている。
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