【光る君へ】藤原実資は“媚びない男” 三条天皇からどんなに頼られても距離を置いた
実資が三条天皇に信頼された理由
その後、実資が自邸で、女の子をあやしている場面が映された。そこに養子の資平(篠田涼)が現れ、娍子の立后の儀で実資が務めた承継について、「帝がたいそうおよろこびでございました」と報告し、三条天皇から預かった「父上へのお言葉」を伝えた。「やっと帝となれたゆえ、政を思いっきりやりたい。左大臣(註・道長)にあれこれいわれたくない。それに然るべきときがくれば、そなたを私の相談役にしたいと思っている」。 これに実資は「この前は行きがかり上、立后の儀の承継になってしまったが、私は私であって、帝、左大臣殿、どちらの味方でもない」と骨のある回答した。資平は「されど、いまこそでございますよ、父上!」とけしかけたが、実資に「浮かれるな!」と諭されてしまった。 この逸話は『光る君へ』の創作ではない。『小右記』によれば、立后の儀の翌日に実資は資平を通じて、ドラマで流されたのとほぼ同様の内容を伝えられていた。ちなみに、以下に記す実資の言動も、基本的に『小右記』による。 三条天皇は実資が、並ぶ者がない最高権力者である道長にも媚びないので信用したのだろう。実際、実資の姿勢がニュートラルであったことは、道長の長女で妍子が中宮になった際に皇太后になった彰子、そして妍子への視線からもうかがえる。
紫式部が取り持った実資と彰子の関係
たとえば、長和元年(1012)から2年(1013)当時、道長が彰子の御所で、公卿や殿上人が食料を持ち寄って宴会をするように誘ったのに対し、彰子が反対して中止になったときのこと。そのころ派手好きの妍子が、同様の宴会を頻繁に開いており、貴族たちに負担を強いていた。彰子はその状況を憂えて、父が同様の宴会を開催することを止めたのだが、実資はこれを受け、彰子を「賢后(賢いキサキ)」と讃えている。 といって、妍子にはいつも批判的なのではない。長和2年7月6日、妍子が無事出産したにもかかわらず、女児だったために道長はきわめて冷淡だった。これに実資は「天の為すところで、人の力ではどうしようもないのに」と、妍子に同情している。 彰子自身も実資に厚い信頼を寄せていた。長和元年(1012)5月、彰子が亡夫である一条天皇を弔うための法華八講を行ったのち、実資は彰子から「お追従をしない実資が日々来訪してくれて、大変悦びに思う」との言葉を、女房をとおして伝えられ、大いに感激したという。 ちなみに、彰子と実資のあいだを取り持っていた「女房」とは紫式部で、実資は紫式部とも良好な関係を築いていた。