「ことばにできないもの」はどこにあるのか? 「書けなさ」について考える【前編】
思考家/批評家/文筆家の佐々木敦さんによるWEB連載「ことばの再履修」の第2回。反響が大きかった第1回(「私たちが日本語を「外国語」として学びなおしたら…いったい何が起きる?」)につづき、今回は「書けなさ」について。佐々木さんの講義、スタートです!
「書けなさ」という問題
「ことばの学校」の受講生から非常によく聞くのは、頭の中に書きたいことがあるのに、ことばにならなくてもどかしい、という悩みです。書くことが思いつかないわけではない。それは確かに存在しているし、書きたい気持ちも強くあるのだが、いざ書いてみようとすると、どうにもうまくいかない。 このような「書けなさ」には、実際には「まったく書けない(書き出しで足踏みしたままになってしまう)」から「多少は書けるのだが、自分が書こうとしたものとは違っている気がしてならない」まで、幅というかグラデーションがあるわけですが、今回はこうした「ことばにできない」ということについての話です。 たとえば、あの夏の想い出を書いてみたいとか、このモヤモヤした気持ちを文章で表現したいとか、面白い話を思いついた(気がする)とか、あなたが好きです大好きですとか、社会に提言したい意見や主張があるとか、色々あると思いますが、とにかく自分の内に何か「書きたいこと」が生じていて、それをことばにしたい。それもできるだけ上手に、それを読むだろう誰かが、もともと自分の内にあった「書きたかったこと」を寸分違わず受け取ってくれるように、書いてみたい。 だから勢い込んでやってみるのだけれど、けれどもなぜか書き始めた途端に、なんだか違う、ぜんぜん違う、書かれるべき「それ」は間違いなく頭の中にあったのだし、今だってあることはちゃんとわかっているのに、うまく書けない、あるいはまったく書けない。どうしてなのか? どうすればいいのだろうか? 頭の中に存在しているはずの「書きたいこと」は、記憶や思念や感情や発想などさまざまで、それらを全部ひとまとめにして語るのはかなり乱暴ですが、ここではひとまず中身はカッコに括って、この「書けなさ」について考えてみたいのです。