まだまだあった! 通訳の「やらかし」 わざと誤訳を行った歴史上の「ヤバい通訳」たち
■通訳の不正・失態 大谷翔平は今年も熱い。それだけに、水原一平元通訳の件が残念でならない。 通訳がやらかした近年の案件としては、2013年12月、南アフリカ共和国のマンデラ元大統領の追悼式が挙げられる。手話通訳者が完全な素人で、まったく意味をなさない仕草を繰り返していたのだ。南アフリカ共和国は世界の注目が集まる式典で、とんだ恥をかかされた形である。 通訳の不正および失態が歴史を大きく揺るがした事例。これがたくさんありそうでいながら、意外と少ない。おそらくは時代や地域により国際語または共通語、共通の文字などが存在して、通訳の出る幕が少なかったからかもしれない。 古代オリエントではアラム語、地中海世界ではギリシア語、中世から近世のアジアではペルシア語、近世から近代のヨーロッパではフランス語がその役目を果たしていた。 しかし、大航海時代のように未知なる世界へ挑もうとする時には出たとこ勝負の感が強く、人類初の世界周航を目指したマゼラン一行はひとりの奴隷に翻弄された。 ■「宴への招待があった」と嘘をつき… マゼラン一行を惑わせた奴隷の名はエンリケ。マゼランがマレーへの遠征に参加したとき、報奨として与えられた現地の住人である。マゼランは世界周航の航海にもこの奴隷を同行させ、自分の死後は一切の義務と服従から解放され、意のままに行動してよいと、あらかじめ遺言に書き記していた。 一行がフィリピンの近海に到達すると、エンリケと会話の成立する者がちらほら現われてきたが、1521年4月27日、不幸にしてマゼランはマクタンという島で戦死。エンリケも負傷したため、以来、通訳の仕事を放棄して、横になっていることが多かった。 しかし、艦隊の指揮を引き継いだマゼランの義兄バルボーザから恫喝され、「スペインに帰ったらマゼランの未亡人の奴隷になるのだ」と言われるに及び、エンリケは覚悟を決めた。 セブ島に上陸したとき、セブの王から歓迎の宴への招待があったと嘘をつき、のこのこと出かけていったバルボーザら艦隊の幹部30人は全員殺される羽目に。エンリケも二度と艦隊に戻ることはなかった。 ■幕府の意向を故意に誤訳 マゼラン一行が見舞われた惨劇よりはインパクトの点で劣るが、江戸時代の日本でも通訳絡みの事件は起きていた。1つは対馬藩が組織的に行なっていた国書の改竄で、「柳川事件」と呼ばれる。 対馬は農業と漁業だけでは養える人口が少なすぎることから、朝鮮との中継貿易を生命線と捕らえており、日朝関係を良好なまま維持するには手段を選ばず、国書の書き換えや改竄、偽の使節の派遣を長く繰り返していた。 1631年、過去の不正が明るみに出るが、4年後に3代将軍徳川家光が下した判決は、藩主の宗義成を無罪、不正を暴露した重臣の柳川調興を有罪とするもの。幕府としても朝鮮との外交関係の悪化は好ましくなかったからだ。 徳川幕府はヨーロッパ諸国の中では唯一、オランダとだけは外交関係を築き、長崎出島での定住も許していたが、1790年、吉雄耕牛ら通訳3人の不正が発覚する。幕府の意向を故意に誤訳してオランダ側に伝えていたというので免職の上、5年間の蟄居(謹慎)を命じられた。かなり重い処分である。 ただし、通訳を3人も放逐できるほどの余裕は幕府にはなく、蟄居の期間を終えると、3人とも何事もなかったかのように元の職場に復帰した。替えの利かない人材が持つ強みである。
島崎 晋