中日・立浪監督が打ち破れなかった「ミスタードラゴンズ」のジンクス…星野仙一、落合博満との奇妙な共通点
ミスタードラゴンズの失敗#2
星野仙一氏や落合博満氏といったドラゴンズのレジェンド監督と、監督としての実績では肩を並べることはなかった立浪和義氏。 【画像】「ミスタードラゴンズ」の失敗 かつて「ミスタードラゴンズ」と呼ばれた2人の先人との奇妙な共通点を野球解説者の江本孟紀氏による『ミスタードラゴンズの失敗』(江本孟紀)より一部抜粋・再構成してお届けする。
「ミスタードラゴンズ」は監督として優勝していないという事実
立浪はドラゴンズしか知らない。それゆえ現役時代に偉大な実績を残したことから、多くのドラゴンズファンから「ミスタードラゴンズ」であると認められた。 立浪の前にもミスタードラゴンズは2人いた。1人目は西沢道夫さん(初代)である。 西沢さんは戦前から戦後にかけてドラゴンズで活躍し、戦前は伸びのあるストレートを武器に、1940年に20勝を挙げたり、42年5月の大洋戦では世界最長となる延長28回を完投。311球を投げるほどのタフネスぶりをみせた。 だが、戦争で肩を壊すと、戦後は打者に転向。1950年はシーズン46本塁打を放ち、52年は打率3割5分3厘、98打点で、首位打者と打点王の二冠に輝く。さらに打撃コーチ兼任となった1954年は、主砲としてドラゴンズを初のセ・リーグ優勝と日本一に導いた。 投手と打者の二刀流として高いレベルで活躍し、メジャーで活躍中の大谷翔平のように投手と打者の同時進行というわけではないものの、投手として20勝、打者として46本塁打を達成したのは、日本のプロ野球史上で西沢さんだけである。つまり、西沢さんこそが「元祖二刀流」といえるのだ。 続いて前にもお話した高木守道さん(2代目)、そして立浪(3代目)である。ドラゴンズの歴史上、3人の「ミスタードラゴンズ」を輩出したことになるのだが、3人には2つの共通点がある。一つは、現役時代は華麗なプレーでファンを魅了したこと、二つ目は「監督として優勝経験が一度もないこと」である。 一つ目は言わずもがなであるため、もう一つの共通点を見ていこう。西沢さんが監督を務めたのが1964年から67年までの4年間で、6位、2位、2位、2位という成績だった。とくに1965年以降は巨人がV9時代に突入していたため、不遇といえば不遇な時期に監督を務めたともいえる。