「義母から執拗ないじめ」日本初のお天気お姉さん・今井登茂子(87)の苦悩と原動力「社会でも理不尽な思いを経験し」
── それだけ必死でいらしたのですね(笑)。 今井さん:ただ、どこをどう探しても、なんにもない日があるものです。そんなときは、国会図書館に通って本を読み漁りました。“今日はエジソンが生まれた日”など、その日に関する話題を仕入れて、番組の冒頭で話すことも。そうしたアドリブが評判になり、視聴率40%につながったようです。 ── 当時は気象衛星などないですよね。どうやって天気を予測していたのですか? 今井さん:私にもよくわからないのですが、気象協会の人たちが各地のデータを集め、予報を立てて原稿を作り、それを私が番組内で読みあげていました。気象協会のなかの4畳半ぐらいの細長い部屋をスタジオ代わりにして、毎回、オンエアしていましたね。
■継母からいじめにあい「早く自立しないとダメだ」 ── そもそもアナウンサーを目指されたのは、なぜだったのでしょう? 今井さん:子どものころから、“自分で稼いで早く自立しなければ”という強烈な思いがありました。これは、育った環境が大きく影響しています。戦争で父が満州に行っている間に母が亡くなり、7歳で孤児になりました。ですが、親戚の誰にも引き取ってもらえず、知らない土地で旅館の従業員部屋に入れられていたことも。その後、戦争から戻った父が再婚し、継母ができたのですが、執拗にいじめ抜かれ、つらく寂しい少女時代をおくりました。ですから、とにかく早く家を出たかったんですね。
当時、女性が自立して稼げる数少ない仕事のひとつが局アナでした。子どものころはまだ真空管ラジオの時代でしたが、番組の合間にナレーションを読むアナウンサーに憧れて。アナウンサー志望の人は、学校に入ったら放送研究会に入るのがお約束でしたが、私は枠にはめられるのがあまり好きではなかったので、立教大学の合唱団に所属。そこで発声や表現力を磨き、そのおかげかどうかわかりませんが、TBSに合格しました。 ── アナウンサーとしてさまざまな体験をされてきたと思いますが、思い出に残っているインタビューはありますか?