阪神の新外国人マルテに掛布氏背番号「31」で賛否
中日では落合博満氏が監督、GM時代に背番号を述べ50人以上にわたって変更させシャッフルさせたことがあった。自らが現役時代に「6」にこだわり、その重みを知っているからこそ発奮材料に使ったものだが、ミスタードラゴンズ、立浪和義氏が、引退後、すぐに「3」を森野将彦につけさせようとし、永久欠番を嘆願するファンから署名運動までおきた。結局、森野が拒否して1年だけ空き番となったが、翌年には立浪と同じくPL学園出身の吉川大幾がつけて4年で戦力外となり巨人へ移籍した。50歳を超えても現役を続けて200勝を達成するなどドラゴンズの象徴的な背番号である山本昌の「34」もすぐにドラフト4位の新人の福敬登に渡され、結局、福は途中育成契約になるほど苦悩。背番号負けの典型的な例だ。 選手の背番号への思い入れは想像以上だ。たいていの選手がサインに背番号を書き入れるし、車のナンバープレートや電話番号に、そのまま背番号を使う人も少なくない。日ハムの中田翔のように背番号の入ったネックレスを肌身離さない人もいる。背番号は、その選手の経歴であり、プライドであり、顔と同じ。またファンも背番号入りのユニホームを着てスタジアムに向かう。背番号はファンと選手をつなぐ重要なツールでもある。 阪神の背番号「31」は、すでに多くのファンの方が発信しているように掛布氏がつける前には、爪楊枝をくわえて打席に入ったエピソードの残るスラッガー、ウィリー・カークランドがつけていた。掛布氏は9代目。1974年のルーキーイヤーから引退する1988年までつけ、3年間空き番になった後、1992年からドラフト1位の萩原誠がつけて復活。その後、広澤克実、濱中おさむ、林威助と4人に引き継がれたが、2013年オフに林が退団、同時に掛布氏が、当時GMだった故・中村勝広氏が要請する形でGM付育成&打撃コーディネーターに就任した。その際に球団サイドとは「掛布が納得して背番号を渡したいという若手選手が出てくるまで空き番にする」という事実上の準永久欠番にする“口約束”ができていた。 掛布氏は、2016年の2軍監督就任と同時に「31」を自ら復活させたが、当初「31は監督、コーチがつけるよりも選手がつける番号」と固辞した。結局「掛布が31をつけないと、金本監督も6をつけにくいから」と説得されて「31」を復活させた。オールドファンを熱狂させ、背番号「31」の復刻ユニホームが飛ぶように売れたが、ユニホームを脱ぎ、たった1年で、かつての“口約束”も反故にされ、準永久欠番の継承どころか、まだ海のものとも山のものともわからない新外国人に渡されたのである。 昨年オフのドラフト前に阪神が早実の清宮幸太郎の1位指名を決定した際、掛布氏は「31という番号は左バッターが似合う。31は私のものでもなんでもないが、清宮が31をつけてくれれば面白いよな」という話をしていたことがある。結局、日ハムにクジでとられ、その願望は幻になった。 今ドラフトで1位指名した大阪桐蔭の藤原恭大を矢野新監督が引き当てて、背番号「31」を与えるのならば、まだ「阪神の未来を背負う左のスラッガー」という意味でファンの賛同を受けたのだろう。だが、よりによって、このタイミングで新外国人に大安売りするとは何ごとなのか……と、昭和の時代の筆者は考えるのである。 広島では前田智徳氏がつけていた「1」が準永久欠番だったが、今オフに鈴木誠也が継承することになった。広島では、「前田氏が認めた打者がつける」という約束事があり、球団が前田氏と話し合った上で了承、推薦をとりつけて6年ぶりに復活することになった。広島の堂々の4番打者としてリーグV3に貢献、誰もが納得する形での継承で、今回の阪神の「31」の継承とは、まったく話が違う。 広島では、そういう準永久欠番の解禁の約束事が守られ、阪神では簡単に反故にされる。問題はそこだろう。つまり球団の体質なのだ。 。