なんと、生還したのは「たったの1艦」…海上封鎖を突破して、ドイツから呉に戻ったイ8潜水艦。戦後「アメリカが驚愕」した「日本の独自技術」
航跡を再現する
『深海の使者』の記述をもとに、潜水艦の航跡を推定して図2に示しました。往路も復路も、なるべく短い日数でインド洋を渡りきるために、亜熱帯循環流をうまく生かそうとしたようです。
給油ポイントは「中央海嶺の交点」
往路での給油は、インド洋のほぼ中央を過ぎたあたり、ちょうどロドリゲス三重点のあたりでなされました。ロドリゲス三重点とは、インド洋の深海底を逆Y字形に3分割している三つの中央海嶺(かいれい)が一点で交わる要所です(図3参照)。 海底に連なる火山山脈を中央海嶺といいますが、これら三つの中央海嶺はそれぞれ、中央インド洋海嶺、南西インド洋海嶺、南東インド洋海嶺という名前がついています。 「イ号」の各潜水艦はこのロドリゲス三重点の近辺で、別の潜水艦、または油送船とドッキングし、給油ホースを用いて洋上給油しました。波が高いときには、かなりの難作業だったと推測されます。 このロドリゲス三重点の近郊は、ぼくらが1993年から2000年にかけて、海底温泉の探索で繰り返し訪れた海域です(『インド洋』第2章参照)。 「イ号」潜水艦が「ここで給油していたのか」と思うと、感無量でした。観測の合間に、デッキにもたれて海面を眺めていると、今にも目の前に、往時の潜水艦がタイムスリップして浮上してくるのではないかーーと、不思議な気分にとらわれました。
あえて「荒れる時期」を選んだのか
潜水艦に乗船したのは軍人だけでなく、民間企業の技術者が便乗することもありました(特に「イ52」では7名)。ドイツの最新技術を学ぶためです。 いつ撃沈されるかわからない大戦下の潜水艦の、暗く狭い船内に2~3ヵ月、もしくはそれ以上のあいだ閉じ込められるのは、たいへんな苦痛だったに違いありません。特に、アフリカ南端沖の「吠える40度」越えが一大難関でした。 南インド洋の南緯40度から60度のあいだには、俗に「南極海の暴風圏」とよばれる大波高帯が広がっています。昔から船乗りによって「吠える40度、狂う50度、絶叫する60度」と恐れられてきました。このあたりの海域は常時、強い偏西風が吹くために海面が波立ち、さらに低気圧が次々と通過していくことで、大荒れの海が続くのです(『インド洋』第3章〈航海者たちを苦しめる「吠える40度の洗礼」〉参照)。 ケープタウンのイギリス軍基地を避けるために、南下すればするほど海は大荒れとなり、強い西風に逆らって進まなければなりませんでした。 図4によれば、「吠える40度」海域は、冬の時期ほど海況が悪く、航走には明らかに不向きです。 ところが表1を見ると、たいてい5~9月という南半球における晩秋から冬の荒天期に、苦労してここを通過していることがわかります。 季節によって海況に大きな違いのあることが、当時は知られていなかったのでしょうか。あるいは、敵の哨戒のウラをかこうと、あえて海況の悪い時期を選んだのかもしれません。 ところで、彼らはいったい、どのような積み荷を搭載していたのでしょうか?
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