なんと、生還したのは「たったの1艦」…海上封鎖を突破して、ドイツから呉に戻ったイ8潜水艦。戦後「アメリカが驚愕」した「日本の独自技術」
帰国できたのはわずか1隻
当時の同盟国であるドイツと我が国とのあいだには、陸路としてシベリア鉄道がありました。しかし、ドイツとソ連が1941年に開戦してからは使用不能となり、人や物資の往来は海路に頼らざるを得なくなります。 大戦が始まった頃、ドイツは数多くの海上封鎖突破船(あるいは仮装巡洋艦)をインド洋や太平洋に放ち、米英など連合国側の通商破壊工作をさかんにおこないました。これらの艦船は「柳船(やなぎせん)」ともよばれ、戦略物資を日本に輸送したり、逆に、アジア原産の天然資源をドイツに持ち帰ったりしました。柳船がもたらすドイツの最新技術に、我が国は大きな恩恵を受けていました。 しかし、戦局が硬直化するにつれ、柳船は連合国側の哨戒網の餌食(えじき)になり、失われていきます。そして最後に残ったのが、海面下を秘かに行き来できる潜水艦による人や物資の輸送だったのです。 隠密行動である以上、無線はほとんど封鎖し、敵艦を見つけてもいっさい攻撃せずに身を潜めるのみ。英国の勢力下にあったスエズ運河を避け、アフリカ大陸の南端(アガラス岬)をぐるりと迂回しなければなりません。 このような潜水艦のドイツ派遣は、表1に示したように5回計画され、使用された潜水艦は、すべて「イ号」タイプの大型艦(2000~2500トン程度)でした。 ただし、「イ34」はインド洋へ出る直前、当時は日本の占領地だったマレー半島北西岸のペナン港外で雷撃を受けて沈没、また、「イ52」はインド洋は無事に通過できたものの、大西洋のほぼ中央で撃沈されて目的を果たせませんでした。 ドイツにたどり着けたのは「イ30」「イ8」、および「イ29」の3艦。復路は、ほぼ逆のコースをたどってインド洋を横断し、ペナンまたはシンガポールに寄港しますが、日本本土まで戻れたのは「イ8」の1隻のみでした。
潜航コースを再現すると…?
潜水艦の予定コースを決めるうえで重要な「インド洋の海況」について、当時の日本海軍はどの程度把握していたのでしょうか? たいへん興味のあるところです。 図1は、当時の代表的な教科書『海洋学』(野満隆治著)に掲載されていた世界の海流図です。南インド洋に反時計回りの「亜熱帯循環流」のあることや、赤道付近に西向きの強い流れのあることなど、基本的な表面海流の特徴は、すでによく知られていたことがわかります。
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