『光る君へ』藤原宣孝は紫式部が越前に行く前から猛アプローチしていた?結婚を決断するまでの「和歌のやりとり」
■ 定子にこだわり内裏に呼び戻そうとする一条天皇の「暴走」 では、道長の意見はどうだったか。『小右記』において「左大臣の定め申す旨、慥(たし)かに聞かず(左大臣が申した意見は、はっきりとは聞かなかった)」とあるように、道長は明確な意見を言わなかったらしい。 ドラマでも道長の意見はなく、一条天皇から「そなたの意見はないのか?」と聞かれて「お上の御心と同じでございます」と答えている。 道長からすれば、政争のライバルだった伊周の運命を左右する議題である。自身の影響力も考えて、発言を控えたのだろう。 また、もう一つ理由があるとすれば、道長はこう考えていたのではないだろうか。 「もはや、何を言っても一条天皇のお耳には届かないだろう」 ドラマでは、一条天皇は「大宰権帥(だざいのごんのそち)・藤原伊周は、出雲権守(いずものごんのかみ)の藤原隆家の罪を許し、速やかに召喚せよ」と結論を下している。それどころか、一条天皇は伊周と隆家、定子に下した処分について悔やみ、「あのとき、お前に止めてほしかった」と道長を責める始末だった。 『小右記』でも一条天皇は「召喚すべきである」と結論付けている。当然、一条天皇の目的は、伊周の罪を軽くすることで、伊周の妹である定子の罪をも軽減し、最愛の定子を内裏に呼び戻すことである。 ドラマでは、一条天皇が母の詮子に「中宮を内裏に呼び戻します。娘の顔も見ず、中宮にも会わずこのまま生き続けることはできません」と報告。母はそんな息子の決意に心を打たれ、道長に「お上の願いをかなえてさしあげて」と告げている。
■ “辞表”を提出して一条天皇を試した道長の「反撃」 とはいえ、すでに出家している定子を内裏に戻せば、公卿たちからの反発は避けられない。道長が頭を悩ませていると、頼りになる男が知恵をひねり出した。渡辺大知演じる、蔵人頭の藤原行成である。 「職の御曹司(しきのみぞうし)ならば、いかがでございましょうか。内裏ではありませぬが、職の御曹司ならば帝がお会いになることも叶いましょう」 職の御曹司とは、中宮に関する事務を扱う役所「中宮職」の一局で、内裏からも近い。道長は「なるほど」と応じて、行成に「天皇を説得してくれ」と懇願。このプランが実現することとなる。 だが、一条天皇の暴走は想像以上だった。しょっちゅう定子のもとに通うようになり、そのたびに輿(こし)に乗るので、周囲にもバレバレだったようだ。 ドラマでは実資が「前代未聞、空前絶後、世に試しなし!」と怒りをあらわにする場面もあった。実際に実資は『小右記』で「天下、甘心せず(同意できない)」とつづっている。 このままでは、朝廷の威信は失墜するばかりだ。その後、道長が意外な行動に出たことが、藤原行成の記した日記『権記』には記されている。長徳4(998)年3月3日、なんと腰痛がひどいために、出家したいと言い出したのである。 それに対して、一条天皇は「どうしても志を成し遂げたいと言うのならば、病気が治ってから出家してはいかがだろうか」と返答。道長が出家すること自体は否定しなかった。 その後のやりとりで、「朝廷の重臣で、天下を治めて自分を補佐してくれるのは、道長のほかにはいない」とも言っているが、道長からすれば、一度は自身の出家を受け入れたことから、「ほかに適任者が見つかれば、自分以外に政務を任せるつもりがあるのではないか」と考えたことだろう。 一条天皇を試すかのように、道長はその後も3月5日と3月11日と二度も“辞表”を提出。一条天皇も冷静に考えれば、道長以外には難しいと考えたのだろう。道長が辞することは許さなかった。 ならばと、道長は重要なカードを切ることになる。11歳の娘・彰子の入内である。一条天皇からすれば、受け入れるほかなかっただろう。拒絶すれば、道長は今度こそ辞めてしまうかもしれない。 一条天皇は道長の求めるままに、彰子を女御としたばかりか、すでに中宮の定子がいるにもかかわらず、彰子も中宮として迎えることを後に決断させられている。 ドラマでは、周囲の反対を押し切り、わがままを貫いて定子と逢瀬を重ねた一条天皇。だが、ここからは道長の反撃が始まることになりそうだ。