「放置していたらがんの可能性も」芥川賞作家・平野啓一郎が語る“偶然による運命の分岐点”
『富士山』では結婚を意識した女性の心理がリアルに描写されている。 「僕は昔からよく相談をされるタイプで、特に40歳前後のころは、同年代の友人の女性たちからいろいろな恋愛相談を受けていたんです。『富士山』には、当時聞いていた悩みが少しずつ反映されているような気がします。実際に相談にのっていた友人たちは、なぜか僕の助言とは反対の方向に向かっているんですけどね(笑)」
僕たちはいくつもの運命の分岐点を経験している
本書に収録されるどの作品にも平野さんの知識や経験や思考が凝縮されている。中でもそれをいちばん色濃く感じられるのは、秋葉原無差別殺傷事件を彷彿とさせる“起こらなかった犯罪”を描いた『鏡と自画像』かもしれない。 「起きてしまった犯罪をどうすれば食い止められたかを考えるときって、教育問題とか社会問題とか、大きな話になりがちなんですよね。僕は秋葉原無差別殺傷事件の犯人が書いた本を読み、彼は論理的に物事を考えることができる人物だと感じました。彼に何かのきっかけさえあれば、あのような事件を起こさずに済んだのではないかと思っているんです」 『鏡と自画像』の主人公は死刑を望んで犯罪を計画するが、とある画家の自画像との出会いによって人生が変わる。 「実際、世の中には犯罪の手前で足を止めた人がたくさんいると思うんです。僕たちが日常の中でちょっとした優しさや思いやりを持つだけで、もしかしたら起きていたかもしれない大きな事件を止めることもできるんじゃないか……と考えたんですよね」 ささいな偶然が人生の分岐点となり得ることを痛烈に実感するのが、2編目に収められている『息吹』だ。 主人公の息吹はかき氷屋が満席のため、たまたまマクドナルドに入り大腸内視鏡検査の世間話を耳にした。それを機に検査を受けて初期の大腸がんが見つかり、手術は無事に終了したのだが、息吹の中にはあの日、かき氷を食べた記憶が残されていて─。 「僕自身、40代後半になってから、偶然聞いた知人の大腸内視鏡検査の話をきっかけに検査を受けたことがあるんです。その際にちょっと大きめのポリープが見つかって、医師から『放っておいたらがんになったと思いますよ』と言われました。あのとき、たまたま知人から検査の話を聞かなければと考えると、何ともいえない嫌な気持ちになりました」 平野さんは、人生には偶然に左右される部分が大きいと語る。 「普段はそのことをあまり自覚しないと思うんです。でも、朝の通勤電車がたまたま30分遅れていて、その30分のために違った人生を生きることになる可能性というのは誰にでもあるわけですよね。意識していないだけで、僕たちはいくつもの運命の分岐点を経験していると思うんです」