ベニシアが亡くなって1年半 いま「延命処置」について考える……カテーテルは彼女が望んだ選択だったのか
梶山正の「ベニシアと過ごした最後の日々」
ハーブ研究家のベニシア・スタンリー・スミスさんの夫、梶山正さんが、2人で過ごした最後の日々をつづります。 【写真2枚】1970年、インドを訪れたベニシアさん
ベニシアは2022年夏にグループホームで新型コロナウイルスに感染し、肺炎を患います。日本バプテスト病院に入院した後、退院が9月28日と決まり、この回は、それから始まる自宅介護の生活を書くつもりでいました。でも、その前に書いておきたくなったことができました。ベニシアが亡くなって1年半近くたち、本を読んだり人の話を聞いたりして、今ようやく落ち着いて考えられるようになったこと――「延命処置」についてです。
突きつけられた重い問い
延命処置とは、老化や病気で生命の維持が難しくなった人に対し、医療的措置によって一時的に生命をつなぐ行為です。それを必要とするタイミングは、人によっていろいろです。ジワジワとゆっくりやって来るケースがあれば、ある日突然のケースもあります。 ベニシアの場合は後者でした。肺炎で急に体力が衰えて、口から食べられなくなりました。痩せ衰えた彼女を見て、僕はうろたえました。退院後、自宅介護を始めてしばらくたった頃、週に1度訪問診療に来る渡辺先生に聞かれました。 「延命することについて、あなたはどう考えていますか?」 「すみません、よく分からないんです。ちゃんと答えられません」 僕は「延命」という言葉の響きにギクリとしたのです。温かみがなく無機質な医学専門用語に聞こえます。延命しないなら、死を選べということなのでしょうか。命は生物にとって最も大切なもので、死は悪だと思っています。死は避けなければならないと考えました。 両親を看取(みと)った経験もなく、高齢者にやってくる様々なことついて、ふだんから地道に勉強して知識を蓄え、考えを深めることがありませんでした。心の準備ができていなかったと思います。渡辺先生の問いに、僕は頭を抱えるばかりでした。
点滴で栄養を中心静脈へ
実は、渡辺先生から聞く以前にも、「延命」という言葉を聞いていたことを、今になって思い出しました。ベニシアが入院中に、バプテスト病院の湊(みなと)先生とのやり取りを、拙著「ベニシアの『おいしい』が聴きたくて」の中で、僕は書いていたのです。 <「梶山さんはどこまで、ベニシアさんを延命させようと考えていますか?」と湊先生から聞かれた。僕は延命の意味を理解してないし、それにどう答えたらいいのかさえ解らない状態である。 「今は腕の細い血管(末梢静脈)から点滴で栄養を入れていますが、今のシステムだと薄い栄養しか入れられません。もっと栄養を取るには心臓に近い太い血管(中心静脈)までカテーテルを使って、もっと濃い栄養を点滴する方法があります。または胃ろうといって、直接、胃に栄養を入れる方法もあります。そのどちらかをやりますか?」 「現在も点滴しているし、別システムになるとはいえ、これからも点滴という方向でいいんじゃないですか。胃ろうではなく、カテーテルの方でお願いします」> 末梢静脈からの栄養点滴だと1日で80キロカロリーの摂取量です。カテーテルを使って中心静脈まで送るなら、高濃度のブドウ糖や他の栄養剤など10倍の800キロカロリーの栄養を摂取できるということでした。 口から食べられなくなったベニシアの命は、あと2~3か月と聞いていました。カテーテルを付けなければ命は1か月以内です。「1か月以内で死なすか、そうでないか」と選択を迫られたようなものです。当然、少しでも長く生きてほしい、そしてその間に体が回復してくれるかもしれないとも思いました。