「土俵の上でなら死んでも本望」 ピラニアと呼ばれた名大関「旭国」の根性【追悼】
「土俵の上でなら死んでも本望」
だが、慢性の膵臓炎を抱えていた。小結だった75年春場所は、やむなく入院。医師の制止を聞かずに「土俵の上でなら死んでも本望」と病院を抜け、10日目からの途中出場で4勝2敗したとは驚かされる。翌76年の春場所後に大関に昇進した。 同年1月には淑子さんと約2年の交際を実らせている。食事中に近くの席にいた学生時代の彼女を見初めたのがきっかけ。本誌(「週刊新潮」)の「結婚」欄の取材に新婦の淑子さんは、〈相撲なんかまるで関心がなかったの。(中略)ちょっと見にはこわいようですけど、すごくやさしいんですよ。ただ、押しは強いかなア〉と語っている。確かにピラニアだ。 相撲ジャーナリストの大見信昭さんは思い返す。 「朴訥としておとなしいが、根性が据わっていた。取材に丁寧に応じてくれる人で、稽古より病気の方がつらかったと話していました」
モンゴル人力士を根付かせた功労者
大関のまま79年秋場所で引退。時に32歳。16年余りの現役生活で幕内在位54場所、敢闘賞1回、技能賞6回、金星2個、大関在位は21場所。優勝経験はない。 80年、大島部屋を興すと、大島親方として横綱・旭富士、小結・旭道山らを育てる。92年にはモンゴルから初めて6人の弟子を取った。 「この6人は日本に慣れず、モンゴル大使館に駆け込み帰国した者も。大島親方の説得で3人は残り、旭鷲山はモンゴル人初の小結に昇進、旭天鵬は関脇に。親方は手柄話をしませんが、モンゴル人力士を根付かせた功労者です」(大見さん) 日本相撲協会では巡業部長などを歴任、2012年に定年退職。昨年も旭秀鵬の断髪式に姿を見せたが、糖尿病が進行していたという。 10月22日、77歳で逝去。 葬儀にはモンゴルから旭鷲山が駆け付けたほか、かつての弟子が集った。おやじと慕われた人徳者である。 「週刊新潮」2024年11月7日号 掲載
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