新時代に花開くか「令和デモクラシー」
「デモクラシー」というと、日本史で学んだ「大正デモクラシー」を思い浮かべるかもしれません。「民主主義」「民主政」などと訳されるデモクラシーは、昭和、平成の時代を経て、日本でどう変遷を遂げてきたのか。「令和」の時代、デモクラシーはどんな姿を見せるのか。政治学者の内山融・東京大学大学院教授に寄稿してもらいました。 【図表】平成の日本政治とは?(2)冷戦後の世界戦略を考えなかった日本
◇ 天皇陛下が即位され、令和が始まった。新しい時代の日本政治では何が課題となっているのか。戦後から昭和、平成のデモクラシーの特徴を見た上で、「令和デモクラシー」の課題について見てみよう。
派閥均衡や党内合意を重視した「昭和」
戦後昭和のデモクラシーの形がおおよそ定着したのは1955(昭和30)年である。1955年には、それまで分裂していた革新陣営の社会党が統一し、保守陣営でも自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成された。この後、昭和の時代では、自民党が与党として統治し、社会党が野党第1党として自民党に対峙するという構図が続いた。これを「55年体制」と呼ぶ。 55年体制の最大の特徴は、自民党の一党長期支配である。自民党は、有力政治家の率いる派閥が大きな力を持っており、いわば「派閥の連合体」であった。首相となるのは与党の自民党総裁であったが、自民党総裁に選ばれるためには多くの派閥の支持を得なくてはならなかったため、首相の政治運営は党内の合意や派閥の均衡を重視するものとなった。さまざまな決定に当たっては関係者への根回しを行い、できるかぎり合意を得ておくことが基本方針であった。 この時代のデモクラシーのもう一つの特徴は、政策決定が官僚主導だったことである。各省の官僚が、その省と密接なつながりを持つ政治家(「族議員」と呼ばれる)と協議しながら政策を立案していった。形式的には首相が政府の長だったものの、実際には首相は、官僚や族議員が作った政策を事後的に了承するのが通例だった。すなわち、政策決定はボトムアップ型であった。また、族議員は利益集団とのつながりが強かったため(たとえば、「農林族」は農協を、「厚生族」は医師会を支持基盤としていた)、補助金などの形で各セクターへ利益分配を行うことが政策の中心となった。 すなわち、戦後昭和デモクラシーにおいて、首相の政治的リーダーシップは弱かった。そのため、国内の改革が求められる状況になっても、首相が改革を断行することは難しかった。例えば、米国から圧力の強かった農産物の市場開放や、規制緩和などの構造改革は、官僚、族議員、利益集団といった既得権益の抵抗に遭い、なかなか実現されなかった。こうした問題が昭和の終わりに顕在化してきたため、新たなデモクラシーの形が必要とされるようになった。