【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】ライバル・田淵幸一が語る"ミスタープロ野球"<前編>
田淵 キャッチャーとして長嶋さんと対戦した時、どうしても憧れが捨てきれなかったな。「これが長嶋さんか」とマスク越しに思いながら見ていた。長嶋さんは空振りしても凡打しても、いつも全力だった。失敗することを何とも思っていないように見えた。打撃も守備もそう。だから、大差で巨人が負けている試合でもお客さんは帰らなかったよね。 ――捕手としてどんな攻略法を立てたんでしょうか。 田淵 どんなバッターでも好きなコースとか苦手な球があって、それに合わせてこちらも対策を練るんだけど、長嶋さんは何を狙っているのか、まったく読めない。何をしてくるかわからない。動物的な勘なのか、その時の感覚なのかわからないけどね。 ――捕手としては困りますね。 田淵 本当にそう。江夏に2三振をくらったあとの打席、バッターボックスの後ろのラインを消すんだよ。そうして、キャッチャー寄りに構える。こっちも下がらないといけないから、江夏が遠くなる。どうやって江夏を打つかと考えて、そうしたんだろうね。 もちろん、ルール違反だから「長嶋さん、ダメですよ。バッターボックスからはみ出してます」と言うんだけど、聞いてくれる様子はない。「田淵君、僕は左目でピッチャーを見て、右目でキャッチャーを見てる」という返答がきたりする。昔は球審の判定もあやふやで、長嶋さんが見送ったら「ボール」になるくらい、球審も長嶋さん、王さんには弱かった。阪神のピッチャーはよく打たれたね。 ■マスク越しに長嶋茂雄を見て学んだこと ――田淵さんはプロ1年目の1969年に22本塁打を放っています。1972年に34本塁打、1973年に34本塁打、1974年は45本塁打。1975年には43本塁打を放って、王さんの14年連続の本塁打王獲得を阻止しています。捕手として戦うことで、長嶋さんから学んだことはありますか。 田淵 王さんもそうだけど、長嶋さんは動く教科書だったから、いろいろなものを盗んだよ。打席に立った長嶋さんは息遣いがものすごく荒い。タイムがかかった時に「長嶋さん、どうしてですか」と聞いたことがある。そうしたら、「田淵くん、ピッチャーが投げはじめた時に息を吸って、打つ瞬間に吐くんだよ」と言う。別の機会に堀内恒夫さんにその意味を尋ねたら、合気道の要領だと言う。そういう呼吸法をすれば、ムダな力が脱けてインパクトの瞬間だけに力が入ると。 ――チャンスになればなるほど、打者は力むものですが。 田淵 力が入っていたらダメなんだよ。長嶋さんは力を抜くコツを知っていて、ボールがバットに当たる瞬間に100%の力が出せた。そんなバッターは長嶋さんだけかもしれない。 自分なりに、長嶋さんの呼吸法を真似したよね。俺は全然、腕力がない。左足を挙げた瞬間に力を抜いて、インパクトの瞬間に力を入れる。100%の力を出せるように心がけていたんだよ。 ――王さんは通算868本のホームランを打ちました。通算444本塁打の長嶋さんを田淵さんはどんな打者だと考えていましたか。 田淵 長嶋さんはホームランバッターではなかった。王さんはホームベースの上を通るボールを打つバッター。長嶋さんはストライクゾーンでなくても、打ちたいボールを打つ。最近でいうと、イチロー(元シアトル・マリナーズなど)と同じタイプだよね。 動いてタイミングを取りながら、キャッチャーはインコースに構えたなと思った瞬間、バットを短く握り変えるようなこともした。フォームが崩れても、体が泳いでも、バットが届けばヒットにできる。今、長嶋さんに似たバッターはいないね。 【長嶋茂雄は何がすごかったのか? 他の記事を読む】 ■田淵幸一(たぶち・こういち) 1946年、東京都生まれ。法政大学在籍時は東京六大学リーグ新記録(当時)となる通算22本塁打をマークし、阪神タイガースへドラフト1位で入団。強打の捕手として活躍し、75年には43本塁打を放ち本塁打王のタイトルを獲得。1979年西武ライオンズへ移籍、活躍したのち84年に現役を引退した。89年には福岡ダイエーホークス球団監督に就任。その後も阪神タイガース、東北楽天イーグルスでコーチを務め、2007年北京五輪では日本代表コーチも務めた。2020年1月、野球殿堂入り。 取材・文/元永知宏