「あのプレーは私のためのものじゃなかった」名手LJが1999年プレーオフで決めた伝説の4ポイントプレーに言及<DUNKSHOOT>
1990年代にシャーロット・ホーネッツとニューヨーク・ニックスで活躍したLJことラリー・ジョンソンは、“記録よりも記憶に残る選手”だった。1999年のプレーオフで決めた伝説の“決勝4ポイントプレー”について、本人が当時の知られざるエピソードを語っている。 【動画】身体能力とシュート力を備えたLJのキャリア好プレー! 91年のNBAドラフト全体1位でホーネッツから指名を受けたLJは、201㎝とパワーフォワードとしては小柄だったが、強靭なフィジカルと身体能力、ボクシングで培ったフットワークを武器にルーキーイヤーから平均19.2点、11.0リバウンドをあげて新人王に輝く。翌92-93シーズンにはキャリアハイの平均22.1点、10.5リバウンド、4.3アシストを記録してオールスター出場、オールNBA2ndチーム選出。94-95シーズンにもオールスター出場、5年目の95-96シーズンには自身2度目の平均20点超え(20.5点)と、リーグ屈指の実力と人気を誇る選手として君臨した。 しかし、93-94シーズン中に椎間板ヘルニアを患った影響で、徐々に慢性的な背中の痛みに悩まされるようになる。96年7月にアンソニー・メイソンとのトレードでニックスへ移籍したが、パトリック・ユーイングやアラン・ヒューストン、ラトレル・スプリーウェル(98年に加入)がいたこともあり、パフォーマンスや個人スタッツは大きくダウンしていった。 ニックスでは5年間で330試合に出場して平均12.3点、5.5リバウンド、2.3アシストにとどまったが、98-99シーズンのプレーオフではイーストの第8シードからNBAファイナル進出に貢献。快進撃を見せたチームは“ミラクル・ニックス”と呼ばれた(決勝ではサンアントニオ・スパーズに1勝4敗で敗戦)。 LJは人気ポッドキャスト番組『ALL THE SMOKE』に出演した際、インディアナ・ペイサーズとのカンファレンス決勝第3戦での4ポイントプレーを回想している。 88-91と3点ビハインドで迎えた第4クォーター残り7秒、スローインからボールを受けたLJは、対峙したアントニオ・デイビスのファウルを受けながら3ポイントを放つ。ファンが固唾を飲んで見守るなか、シュートは高い弧を描きゴールに吸い込まれた。ワンスローも決めたLJは4ポイントプレーを完成させ、ニックスは92-91で大逆転勝利を飾った。 「あのプレーは私のためのものじゃなかった。1番目がアラン(ヒューストン)のプレーで、2番目のオプションがスプリー(スプリーウェル)だった。でも、私は3ポイントが決まっていたから(それまで5本中3本成功)、打ちたかったんだ」 LJは、ヒューストンとの交代でベンチに下がったマーカス・キャンビーにタイムアウト明けのプレーに臨む際、声をかけられたという。 「ジェフ(ヴァン・ガンディ・ヘッドコーチ)がプレーを考えてくれた。アランとスプリーだ。ただ、ビッグMC(キャンビー)はコートに出ていく前に私を捕まえ、『君がボールを持つんだ』『インディアナは第1オプションであるアランの選択肢を潰してくるし、スプリーが第2オプションであることも分かっている。だから、それも上手くいかないだろう』と言った」 もっとも LJは3ポイントに自信はあったものの、4ポイントプレーになるとは思っていなかったと明かしている。 「3ポイントは決まると思っていたけど、フリースローを見ただろ? あのボールが入るはずはなかった。(タイミングを)早く打ってしまったからね。人生で一番ひどいフリースローだったよ」 ニューヨークを熱狂させた4ポイントプレーは、“思わぬ偶然も”重なってNBAの歴史に刻まれることになった。 構成●ダンクシュート編集部