<調査報道の可能性と限界>第3回 時の政権が崩壊も 調査報道の威力と歴史
行政当局や警察などによる発表をストレートに報じることを「発表報道」と呼び、「日本では発表報道が全体の7~8割を占める」と言われてきました。これに対し、発表に頼らず、記者や取材チームが自らの責任で独自の視点から取材し、報道するのが「調査報道」です。とりわけ、政治や行政機関といった「権力」が隠したがる出来事や情報を明るみに出すことが、調査報道の大きな役割だと言われます。では、これまでにどんな調査報道が行われてきたのでしょうか。その歴史をザッピングしてみましょう。 【写真】第2回 “情報コントロール”の場ともいえる記者クラブ
朝日の「リクルート疑惑報道」で脚光
新聞の調査報道が脚光を浴びたのは、朝日新聞の「リクルート疑惑報道」が最初だったとされています。リクルート事件とは、リクルート社の創業者が子会社のリクルートコスモス社(現コスモイニシア)の未公開株を政財界に広く譲渡し、譲渡先に公開による利益を与えていた、とされる事件です。 報道の皮切りは朝日新聞で、1988年6月でした。神奈川県川崎市で都市再開発に乗り出そうとしていた不動産会社のリクルート・コスモス(現コスモスイニシア)から川崎市の助役が未公開株を受け取り、その見返りに容積率緩和などで便宜を図っていた、という疑惑を報じたのです。折からのバブル経済の波に乗り、この未公開株は公開すれば値上がり確実と言われていました。朝日新聞はその後、同じ未公開株が政界要人などに広く譲渡されていたことを次々に報道します。中には株購入資金をリクルート側のノンバンクが出していた例もありました。 その後、東京地検特捜部が捜査に乗り出し、藤波孝生元官房長官らが起訴され、有罪になります。公開前の未公開株が賄賂に当たるのか、捜査の中で検事が威嚇していたのではないか、といったことが後に問題になりましたが、リクルート側が未公開株を広く譲渡していたことは事実でした。「政治とカネ」が大きな問題となり、竹下登内閣(当時)の崩壊につながっていきます。
「常識破り」だった独自の裏付け取材
朝日新聞によるリクルート疑惑報道は、日本の報道界の常識を覆るものでした。 実は、川崎市助役への株譲渡は神奈川県警が内偵していましたが、途中で事件化は難しいとして捜査を打ち切ります。この動きをずっと取材していたのは、同県警を担当する川崎、横浜両支局の若い記者たちです。 当局情報に過度に依存する日本の報道界では、事件化されなかったものは、ふつう、ほとんど記事になりません。この時も事件が潰れた後、若い記者たちは「書けなくなった」と嘆いたそうです。 ところが、横浜支局のデスクだった山本博氏(故人)は著書などによると、山本氏は「自分たちで独自に裏付け取材すれば、記事にできる可能性は十分にある。当局頼みの『警察によると』ではなく、『新聞社の取材によると』で記事にしよう」と考え、一連の報道に乗り出しました。 「常識破り」のもう一点は、ふだんは本社政治部が担当する政治家取材を、若い支局記者に任せたことです。新聞社の取材体制は強固な縦割りですから、政治部を飛び越す形で支局記者が大物政治家を取材することは、それまでの常識に反することでした。