清少納言が「すさまじ」と嫌悪した老人のふるまいが思い当たりすぎる! もっともイラつかれる高齢者に共通すること
清少納言と兼好法師ーー歴史に名を残した二人の随筆家が、老人たちにたいして容赦ないNGを出していました。古典に書かれた、疎まれる高齢者の姿が、現在にも通じることに驚かされます。 【エッセイスト・酒井順子さんが、昭和史に残る名作から近年のベストセラーまで、あらゆる老い本を分析し、日本の高齢化社会や老いの精神史を鮮やかに解き明かしていく注目の新刊『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)。本記事は同書より抜粋・編集したものです。】
暇を持て余した老人が…
「放っておいたら人は老人を尊ばない」という事実も、古典の中には見ることができる。随筆の「出で来はじめの祖(おや)」である清少納言『枕草子』には、「ことに人に知られぬもの」(ことさらに気にかけられないもの)として、 「人の女親(めおや)の老いにたる」 との一文が記されている。女親、すなわち母親は、官位を持つような男親よりも忘れられがち、かつ放っておかれがちな存在だったようだ。 男の年寄りについても、清少納言は厳しい視線を投げかけている。時流に乗って栄えている人のところに、暇をもて余した老人が、どうでもいい和歌を詠んでよこすのは「すさまじ」、すなわち「興ざめ」だ、と書いているのだ。出世コースに乗って我が世の春、という会社役員のところに、定年退職したOBがせっせとメールをよこす、といった感じだろうか。 『枕草子』の愛読者だった兼好法師もまた、清少納言と同じような感覚を持っていた。『徒然草』には、「聞きにくく見苦しき事」として、 「老人の若き人に交(まじは)りて、興あらんと物言ひゐたる」 とある。すなわち、老いた人が若い人に混じって、面白がって話したりするのは聞き苦しいし見苦しい、と。
嫌悪感とともに抱いた「老いへの恐怖心」
清少納言や兼好法師は、共に周囲を冷静に見る視線を持っている。既に現役感を失ってしまった老人が、現役の中に混じろうとする様に対して、二人とも嫌悪感を抱いているのだ。 だからこそ二人は共に、老いることに対する強い恐怖心を抱いている。時はあまりにも早く過ぎ、人はどんどん老いてしまう。年をとると、人は自分が他人からどう見えているかもわからなくなってしまうのがまた恐ろしい、と二人は思っていたのだろう。 兼好法師は、「他人から好かれずして、他人と交わるのは恥」とも書いている。白髪頭をして働き盛りの人の中に入っていこうとするべきではない。年齢を戻せと言っているわけではなく、老人はただ静かに安楽に過ごしていればいいのだ、と。 昔は、今よりも高齢者が大切にされたに違いない、と我々は思いがちである。我が国にも伝わる、儒教的親孝行話の数々を読めば、昔は老後の不安などなかったのだろう、と思えてくるのだ。 しかし随筆という生の声や昔話を読むと、高齢者はいつの時代も大変だった、と思わざるを得ない。平安時代の清少納言も、その三百年後の兼好法師も、高齢者に対するイラつきを随筆に綴っているのであり、両者が言いたいのはすなわち、「高齢者はおとなしくしていた方がいい」ということ。またそのように高齢者がつらい立場に置かれがちだったからこそ、かぐや姫や桃太郎といったスーパーキッズが高齢者にもたらされる物語が生まれたとも言えよう。 * 酒井順子『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)は、「老後資金」「定年クライシス」「人生百年」「一人暮らし」「移住」などさまざまな角度から、老後の不安や欲望を詰め込んだ「老い本」を鮮やかに読み解いていきます。 先人・達人は老境をいかに乗り切ったか?
酒井 順子