「日本一の兵」と称された真田信繁の妻・竹林院は、夫の死後どうなったのか?
戦国時代、過酷な状況に置かれたのは武将だけでなく、武家の女性たちも同じ。婚姻を通じて実家と婚家の間を取り結んだり、人質としての役割を果たすなど、覚悟をもって生きねばなりませんでした。そして時には、実家、婚家、あるいはその両方が滅ぶことも...。 【写真】三光神社境内の真田幸村像 月刊誌『歴史街道』2024年12月号では、「戦国を生きた姫たち」と題して、督姫、初姫、竹林院、東向殿、五郎八姫、松姫の六人の女性の歩みを取り上げていますが、ここでは、真田信繁の妻・竹林院について紹介しましょう。
真田信繁の正室・竹林院の生涯
竹林院は、豊臣政権の有力奉行・大谷吉継の娘で、「幸村」の名で知られる真田信繁の正室である。ただ竹林院に関して、詳しいことはほとんどわかっていない。 生年も未詳であるが、父・吉継が永禄8年(1565)生まれ(永禄2年〈1559〉説あり)なのに対し、夫・信繁は永禄10年(1567)、あるいは元亀元年(1570)生まれとされ、年齢がそれほど違わないことから、信繁は竹林院よりかなり年上だったかもしれない。 婚姻の時期も、文禄3年(1594)説や、吉継が病のため、文禄3年から数年の間、豊臣政権を離脱するので、それ以前の天正年間(丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』)など諸説がある。いずれにせよ、秀吉の意向による政略結婚であった。 慶長5年(1600)9月の関ケ原合戦の際には、吉継も信繁も、いわゆる西軍についているが、周知の通り西軍は敗れ、吉継は自刃。信繁は父・真田昌幸とともに高野山、次いで九度山(和歌山県伊都郡九度山町)に配流された。 このとき、竹林院も九度山で合流したと考えられている。九度山には信繁の側室も入っており、子の誕生が相次いだ。竹林院も、嫡男・大助、次男・大八、六女・阿菖蒲、七女・おかねを産んだ。 不自由で貧しくはあったものの、竹林院は夫とともに比較的に平穏な日々を送ったとされる(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』所収 奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」)。 そうした九度山での暮らしは、大坂冬の陣の勃発により終わりを告げる。 慶長19年(1614)10月、豊臣秀頼の誘いを受けた信繁は九度山を脱出し、大坂城に入った。竹林院も夫に従い、城内に与えられた屋敷に居を移した。夫の真田丸での華々しい活躍は、竹林院もさぞかし誇らしかっただろう。 翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、5月7日、信繁は家康本陣を急襲するも、力尽きて討ち取られた。豊臣秀頼と淀殿も自害し、豊臣家は滅亡。竹林院の嫡男・大助も殉死を遂げた。 竹林院は子女を連れて、大坂城からの脱出に成功したが、紀伊伊都郡に潜伏しているところを捕らえられた。だが特に処罰を受けた様子もなく、その後、赦免されて落飾。京で余生を送った。 竹林院は慶安2年(1649)5月18日に、この世を去った。七女・おかねの尽力により、龍安寺塔頭大珠院(京都市右京区)に信繁、竹林院、大助の墓が建立されたという(非公開)。激動の戦国時代を生き抜いた竹林院は、「日本一の兵」と称される夫と息子とともに、安らかに眠ることができたのだ。 【鷹橋忍(作家)】 昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『戦国武将の合戦術』『滅亡から読みとく日本史』などがある。
鷹橋忍(作家)