ちゃんみなさん、坂口涼太郎さん…貴重な瞬間、謙遜や自己卑下で、本心をないものにしない。「欲しいものには欲しい」と言おう
◆きらめく瞬間の思い出 まるで、人生で味わったことがないきらめきを凝縮し、敷き詰めたような時間だった。 始まったその瞬間から、終わりに向かって砂時計は流れ落ちていく。きらめくようなこの瞬間の連続は、瞬く間に過ぎ去っていく。 きっと人生も同じだ。 耐え難い苦痛も、この瞬間が続けばいいのにと思うような時間も、溢れて流れて、一瞬で手の内からこぼれ落ち、二度とは戻らない。 ちゃんみなは言った。「今日は今日しかないから、最後まで楽しんでいって」。 そう、今日という日は、今という瞬間は、二度と訪れない。不可逆だ。そんな儚い、胸が苦しくなるほど切ないこの刹那。もう二度とは戻れない瞬間の連続を生きている現実と、彼女は全力で対峙している。 ちゃんみなは確かにそこで命の火を燃やしていた。命を削り、人生の尊さを叫び、訴えている。 ライブに行っていた友達が、ライブに行くために働いているし生きていると言っていたけど、いまならその意味がわかる。 日常は代わり映えしないからこそ価値がある。でも、それは時に心を曇らせ、鈍らせて、何かを感じ取る力を失わせてしまう。 何のときめきもなく、ただ起きて、働いて、餌のように食事を詰め込んで。そしてまた眠る。そんな機械的にリズムを刻むような色のない生活の連続。その先にも、あの夢のような空間が待っているのなら、耐えられるような気がしてくる。 その先にも、あのきらめく夢のような空間が待っているのなら、耐えられるような気がしてくる。
◆尻餅をついて坂から転げ落ちるかのよう 先日、インタビューしたご縁で交流が続いている「お涼さん」こと俳優の坂口涼太郎さんと、『死ねない理由』の刊行と、坂口さんの連載エッセイ「今日も、ちゃ舞台の上でおどる」(講談社 mi-mollet(ミモレ))の開始を記念してトークイベントを行った。 仕事柄、芸能人と接する機会は多いが、当然、雲の上の存在だと認識している。違う世界を生き、絶対にこちらの世界にやってこない人。そんな認識も失礼だと思うが、それが正直なところである。 だから、一緒にイベントをやりましょうなんて、口が裂けても言えない、と思った。でも、もし誰かとイベントをやるなら? と考えたら、真っ先に思いつくのがお涼さんだった。 読書家で、溢れんばかりの文化的素養がある。ちゃめっけや剛腕なユーモアセンスがありながらも、密度が高く誠実で、ずっしりとした気高い文章をお書きになる。感性が驚くほどピュアでクリア、研ぎ澄まされている。紡ぎ出す言葉も、実に愉快で、また本質的。そんな方とご一緒できないだろうか、と思ったのだ。 最近の私の目標は、「欲しいものには欲しい」と言うこと。私なんて、私なんか。そんな謙遜の形をした醜い自己卑下で、本心をないものにしないこと。思っていることは言わないと分からないし伝わらない。 だから、ありったけの力を振り絞り、勇気のかけらをかき集めてオファーをした。すると、「おおん、ええよ。楽しみ~」的なノリで快諾してくださったので、大いに拍子抜けをし、尻餅をついて坂から転げ落ちるかのようだった。