どこから何度見ても美しい ランボルギーニ カウンタック デザイン物語
従来のルームミラーの代わりに、アメリカのドネリー ミラーズ社の複数のミラーを組み合わせたペリスコープが採用され、ルーフのスリットからドライバーは約2倍の視界を確保した。「ベルトーネは、ベルトーネが何のためにあるのかを示したのです」と、ケルンのグッドブランド研究所のデザイン教授、パオロ トゥミンネリ氏は言う。「ガンディーニはジオメトリーを根本的に単純化した。宇宙から来た人がどうやってクルマをデザインするのだろう?それこそが、ベルトーネがこれからずっと目指していたものだった。革新する勇気、人と違うこと」。
ガンディーニはトリノ支社にとって幸運だった
デザイナーのジウジアーロが会社を去った後、会社のボスであるジュゼッペ “ヌッチオ” ベルトーネはすぐに、まだ白紙の状態の人材を採用した。マルチェロ ガンディーニは、わずか4ヶ月後に3台の習作を発表した。ヌッチオの励ましもあり、1967年以降、ガンディーニは絶好調を記録: 彼は次から次へとウェッジを生み出した。
「ランボルギーニ マルツァル」、「アルファロメオ カラーボ」、独創的な「フィアットX1/9」、「アウトビアンキA112ランナバウト」、「ランチア ストラトスHF」、そして1971年には「カウンタックLP500」が誕生した。こうしてベルトーネは、”私たちはエッジの効いた、先鋭的なクルマが好きなのです”という世界的に知られる杭を打ち込んだのである! 「1967年から1979年まで、マルツァルからボルボ タンドラまで、ベルトーネは文字通り、デザイン界をリードしました」と前述のパオロ トゥミンネリ教授は語る。
その後、ベルトーネもトラブルに巻き込まれる
しかし、80年代、ベルトーネは再び問題を抱えていた。ヨーロッパの自動車産業は生産能力過剰に陥っており、市販車の組み立てを外部のコーチビルダーに依頼するところはなかった。ジウジアーロは、ヌッチオ ベルトーネの鼻先から、「フィアット ウーノ」のデザイン契約を奪い取って行った。1983年のジュネーブモーターショーで、ジウジアーロとピニンファリーナに断られたばかりのシュコダ関係者から、彼らの急進的な新車をデザインしないかと持ちかけられた。もちろん、彼らはそれを待ち望んでいた。
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