新潟県・片貝まつり―「世界で一番幸せな花火」の物語
一方、新成人へのお祝いに、「片貝町民一同」が世界一の四尺玉花火を打ち上げるのが恒例となっている。地上800メートルに花開く直径800メートル大輪は壮観だ。 還暦の同級会は、特に大々的な花火を打ち上げるのが習いだ。今年の「さざなみ会」は1000万円超のスターマインを奉納。5分以上も花火の音が鳴り響き、片貝まつり史上、最大規模の打ち上げになった。 片貝の人々にとって、祭りとは見るものではなく参加するもの。町外の会社に就職したが、祭りの準備のために会社を辞めた猛者までいる。皆、なんらかのかたちで参加したいとウズウズしている。そして、祭りが終われば、すぐに来年に向けて動き始める。
「片貝から嫁をもらうな」
一瞬のきらめきに大枚をはたき、思いを込める文化は江戸の「粋(いき)」にも通じるもの。それが今の時代も連綿と生き続けているのが片貝である。花火にお金をつぎ込む住民の祭り好きは周囲にも知れ渡り、昔から「片貝から嫁をもらうな、片貝へ嫁にやるな」と敬遠されていたという。 花火が死者の慰霊や悪疫退散と結びつくようになったのは、享保18(1733)年に隅田川で開催された水神祭が始まりとされる。時の将軍・徳川吉宗が江戸の街を襲った飢饉(ききん)や疫病で命を落とした多くの霊を慰めるため花火を打ち上げた。それが奉納煙火のきっかけとなった。
片貝では、この地域の庄屋が年中行事を記した文献『やせかまど』に、享和2(1802)年に多種多様の花火を上げ、「一本の打ち上げ失敗もない」とある。遅くともこのころまでに、花火文化は定着していたのだろう。慶応3(1867)年の花火番付には、現在と同じように、花火の種類とサイズ、奉納者の名前が記録されている。
片貝で花火製造が始まったのは、江戸幕府の直轄地だったからだ。鍛冶や染物、大工などの職人が多く住んでいた。その中の鉄砲と火薬を扱う職人たちが、花火を作るようになり、腕を競う中で製造技術が向上していったのだ。明治24(1891)年、三尺玉が初めて打ち上げられ、「三尺玉発祥の地」となった。 その伝統と技術は、片貝まつりで上がる花火の製造を一手に担う片貝煙火工業に引き継がれている。