【日本人の顔が見えない!】アメリカ社会で低下する日本の”存在感”、このままでは日本の歴史も捻じ曲げられる
7月13日に起きたトランプ暗殺未遂事件は世界中の注目を集めた。日本も含めてメディアはこぞって容疑者の人となりや犯行の動機などを報じ、暗殺未遂の影響でいかにトランプ氏が優位になったかということが強調された。 ただ、そのことばかりに集中していては、われわれ日本人が考えておくべき課題を見逃してしまう。それは、誰が大統領になろうとも、米国社会における日本(人)の存在感の低下は危機的であり、どのように克服していくのかということだ。 1990年代、米国社会で日本の存在感は大きかった。バブルが崩壊したとはいえ、円はまだまだ強く、ニューヨークのマンハッタンは多くの日本人ビジネスマンが肩で風を切って歩き、ロサンゼルスでは数多くの日系銀行が進出し、日本人であれば日本語で簡単に銀行口座を開設することができた。ハーバードビジネススクールでは90年代には毎年30~40人もの日本人学生が入学していたし、ハーバード大学全体でも90年代前半には600人近くが日本語を学んでいた。 当時はまだ、中国が急速に経済発展する以前であり、本土からの留学生は限られていた。韓国、台湾、香港からの留学生もいたが、相対的に日本の存在感が際立っていた。全米の主要都市や主要大学界隈の日本料理店は毎夜、多くの日本人でにぎわっていた。 それから約30年。強固な日米同盟が存在し、多くの米国人は日本を友人とみなしている。 ただ、かつては8割にも上った日本を脅威とみなす見方が2割にまで減少したのは、日米間の信頼度が高まったということよりも、むしろ日本の存在感が薄らいだということが主要因ではないだろうか。日本の米国社会における存在感を留学生からみると、ピーク時に約5万人近くに達した留学生数は、2000年代半ばから急激に減少し、近年は2万人を切っている。 一方で中国本土からの留学生は近年、毎年30万人前後にもなり、もはや比べ物にならない。ハーバード大学では、ビジネススクールの日本人入学者数は近年、一桁となることも珍しくなく、大学全体で日本語を学ぶ学生の数も当時の3分の1まで減少している。 日本人留学生の減少は、文部科学省の方針が拍車をかけている側面もある。文科系の一部の分野では、大学院重点化に伴う国内の博士課程の充実が、却って国外への留学生を減らす方向で働いている。毎年できるだけ博士号を出すことを求められている教員が、留学希望の学生に、自分のもと、国内で博士号をとるようにと指導したとしても責めることはできないだろう。