祟りが原因?道長が重い病に苦しみ続けた背景。三条天皇は道長が無礼を働いたと不満を漏らすことも
法師が投げつけた石の1つは、道長の馬前に落ちたといいます。騎馬で比叡山に登るという先例はなく、藤原実資は「道長の行為は、現在そして後世の大きな恥だ。人に非ざる行為」と驚き呆れていますし、天台座主・覚慶(比叡山延暦寺の住職)も「騎馬による数十人での登山はけしからん。石つぶては、三宝(仏)の行為だ」と怒り心頭でした。ところが、道長本人は、石を投げた法師らを「放言の僧」とするなど、心から反省はしていなかったようです。
今回の道長の病の背景にはそうした出来事がありました。道長は、この見立てに納得できなかったようで、慶円と論争したようです。論争できるくらいなので、この頃には道長の病も少しはよくなっていたのかもしれません。ただ、論争があったことで、慶円は修法(加持祈祷)を行うことなく、帰ってしまいます。 ■道長の病を喜んだ公卿も? それからしばらくして、道長は藤原実資を召し「病が身を攻め立てるが、この期に及び思うところはない。命も惜しくはない。ただ、三宮(皇太后の彰子。中宮の妍子。皇太子の敦成親王)のこと、特に皇太后(彰子)のことを思うと心痛だ」と涙ながらに述べたといいます。
6月20日頃には、道長の重病を喜んでいる公卿がいて、それは藤原道綱・隆家・実資・懐平・通任の5人だとの噂が流れました。思わぬところで、名前が上がった藤原実資ですが「運を天に任すしかない」と堂々としていたようです。 藤原娍子(三条天皇の皇后)の立后に参列したことから、このような噂を立てられたのであろうかと、実資は推測していますが、噂を立てられて迷惑であったことは間違いありません。 この噂について、道長からは「信用していない」との知らせが実資のもとに届くことになります。重病の道長も7月には日記を付ける力が出てきて、だんだんと回復しました。ちなみに、同じ頃に三条天皇も病(風邪)で体調を崩していました。