かぐや姫のおかげで老後が安泰に!「老人と子供」の昔話が示唆する「つらすぎる真実」
「老い本」(おいぼん)とは、老後への不安や欲望にこたえるべく書かれた本のこと。世界トップクラスの超高齢化社会である日本は、世界一の「老い本大国」でもあります。 老い本ブームのあだ花として消えていく老い本も多い中で、昔話に描かれている「老い」は、現在にも通ずる、当時の辛すぎる真実を示唆しているといいます。 【エッセイスト・酒井順子さんが、昭和史に残る名作から近年のベストセラーまで、あらゆる老い本を分析し、日本の高齢化社会や老いの精神史を鮮やかに解き明かしていく注目の新刊『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)。本記事は同書の第一章「老いの名作は老いない」の第四節「古典の老いと理想」より抜粋・編集したものです。】
「老人と子供」からは何かが起こる
子供が、人生で初めて接する本。それは日本で生まれ育った人の場合、老い本であるケースが多い。 たとえば「桃太郎」「かぐや姫」「一寸法師」といった昔話は皆、おじいさんとおばあさんが、小さな子供と、ちょっと変わった出会い方をするところから物語がスタートする。日本の子供達が親しんできた昔話の数々に登場するのは、おにいさん・おねえさんやおじさん・おばさんではなく、おじいさん・おばあさん。それらは、夫婦の老後生活に訪れた椿事(ちんじ)を描いた話なのだ。 いやいや今の子供達は、桃太郎だかぐや姫だといった昔話よりも、『アンパンマン』の方が好きなんですよ、という話もあろう。が、『アンパンマン』もまた、老人と子供の話である。ジャムおじさんは、名前こそ「おじさん」だが、見た目はおじいさん。パン工場でジャムおじさんが作ったパン達が活躍することによって物語は進むのであり、こちらもまた老人とその子供によって、物語が展開していく。 老人と子供の組み合わせからは、何かが起こる。……これは、旧約聖書においても同様である。「創世記」には、アダムとイブから始まる人類の草創期の様子が描かれるが、大洪水で生き残ったことで有名なノアの息子であるセムは、百歳の時に息子をもうけているし、ノアの子孫のテラも七十歳の時に子供をもうける。さらにその子・アブラムとサライの夫婦には長年子供ができず、夫が百歳、妻は九十歳の時に、男の子(イサク)が誕生している。 創世記では、ほかにも超高齢夫婦が子供を持つ話が目白押しなのだが、もちろんそれは神話的世界における誇張というものであろう。百歳超にして子をなしたというのは、当時においては異例なほどの高齢で子供を産んだ人がいた、ということを示しているのではないか。 超高齢出産の連続によって血脈が繋がっていく、創世記。おじいさんとおばあさんのもとに、桃や竹から子供がもたらされる、日本の昔話。それらを見れば、老人のところにひょっこり子供が現れて何かが起こるというストーリーは、洋の東西南北や時代を問わず好まれていたことがわかる。 それらは一発逆転ストーリーとして人気があった、と考えることもできる。旧約聖書の時代であれ、日本の昔話の時代であれ、人にとって子を持つことは、今よりもずっと重要な意味を持っていたはず。今のように「子を持つも持たないも個人の自由」ではなく、一族の血を絶やさぬために生きることが当然視されていた時、子供のいない老夫婦のいたたまれなさは、想像を絶するものだったに違いない。 その時に、桃太郎なりイサク(アブラムの息子)なりといった子供ができることによって、老夫婦の世界は激変する。老いてから、彼等の人生はピークを迎えるのだ。