発着甲板が多いほど便利じゃん!「階段みたいな空母」日本海軍の試行錯誤 その結末は?
初代「加賀」も大規模改修を経験
海上自衛隊は2024年11月7日、アメリカ西海岸のサンディエゴ沖で、護衛艦「かが」におけるF-35B戦闘機の艦上運用試験が完了したと発表しました。同艦は今後、F-35Bも運用可能な実質的な軽空母へと姿を変える予定です。 【だ、誰ですか!?】見た目が全然違う多段空母時代の「加賀」と「赤城」(写真) 漢字とひらがなの違いこそありますが、旧日本海軍にも同名の艦が存在しました。しかも「かが」と同じく航空機の運用が可能な空母としてです。 旧日本海軍が保有していたのは「加賀」。同艦は第二次世界大戦の対米戦序盤の戦歴で知られますが、実は前出の護衛艦「かが」以上に試行錯誤をした艦でもありました。 元々「加賀」は、ワシントン海軍軍縮条約の影響で戦艦としては建造中止となっていた戦艦「加賀」の船体部分を転用し空母へと仕立て直したものです。とはいえ、空母として竣工した後も姿を変えており、当初は大戦時のような「全通式」というフルフラットな飛行甲板を備えた外観ではありませんでした。 単刀直入にいうと、飛行甲板が三段重ねという異形なもので、たとえるなら「ひな壇」のような甲板形状の空母でした。なお、同時期に建造された「赤城」も似たような形をしていました。 この三段式の飛行甲板の役割は、最上段の甲板は着艦および戦闘機など小型機の発艦用、中段も当初は飛行甲板にすることも考えられましたが、あまりにも使いづらいため艦橋と20cm連装砲塔が2基設置されています。そして下段が雷撃機や爆撃機など大型機の発艦用として想定されていました。
「多段化…ダメじゃん!」その理由は?
ただ、旧日本海軍の「ひな壇空母」には元ネタがあります。それは、イギリス海軍が当時運用していた「フューリアス」。同艦は第一次世界大戦中に巡洋戦艦として計画されますが、航空機運用に特化した艦として形状を一新。そして大戦後の1922年6月の改装で、飛行甲板に構造物を全く持たない「フラッシュデッキ型」、しかも飛行甲板が二段ある、いわゆる多段式空母へと変貌しました。このような構造になった理由は、上部甲板を着艦用、下部甲板を発艦用に使いたかったためです。つまり「発艦と着艦を同時に行いたい」という考えの元に前述したような姿へと改修されたのです。 空母はその誕生以来、「発艦と着艦」を同時に行えた方が効率も良いというのが、空母を運用し始めた日米英、各海軍大国間での共通認識でした。発着艦を同時に行えれば、敵を波状攻撃できると考えられたためです。 しかし、結果としてこの多段化したひな壇空母は、うまくいきませんでした。「赤城」「加賀」が完成した1920年代の航空機は、軽くて離陸しやすい複葉機が主体でしたが、艦載機の大型化、高性能化は著しく、機体重量が重くなると、その影響で下段の飛行甲板は使えなくなります。一方、最上段の飛行甲板のみ用いようとすると、こんどは滑走距離が足らず艦載機の発艦が不可能でした。もちろんイギリス海軍の「フューリアス」も同じような状態になります。 また、当初は空母も砲撃戦に備えた方が良いということで、20cm連装砲塔を搭載していましたが、艦載機の航続距離が伸びたり、艦隊運用が熟考されるようになったりすると、砲塔の必要性は薄れます。 その結果、大幅改装するという判断が下り、「加賀」は1935年6月25日、「赤城」は1938年8月31日にそれぞれ一段の全通甲板になりました。その後、第二次世界大戦へと突入しますが、その間、発艦と着艦を同時に行う技術の研究は後回しにされ、ひとまず発艦作業と着艦作業それぞれの時間を設けて、専念することになりました。 この状態は任務の効率以外にも、着艦時にオーバーランなどの事故が生じた場合、飛行甲板の前方などに駐機している機体に衝突し飛行甲板が使用不能になる危険を残していました。