「こいつ、拳銃を持っているぞ」麻薬取締官が売人や中毒者の溜まり場で演じてしまった〝失態〟
元麻薬取締官の高濱良次氏が36年間の「マトリ」生活の原点だったと語る’72年に赴任した近畿地区麻薬取締官事務所時代のエピソードの後編。高濱氏がこの当時、足繁く捜査のために通ったという大阪の浪速区・西成区でのエピソードの後編だ。日頃から情報収集のためによく立ち寄っていたパチンコ店近くで、思わぬ〝失態〟をしてしまったのだという。 【地図】当時、高濱氏が足しげく捜査い通った大阪〝薬物犯罪多発地帯〟 【前編】「ドヤ」に泊まり込みで張り込んだ現場で…〝マトリ〟生活の原点・大阪の薬物犯罪多発地区での闘い ◆売人や中毒者の溜まり場で情報収集 西成区の東側、阿倍野区に接している地区は、主に小さなアパートが密集しており、場所によっては、救急車や消防車さえ入れないほど道幅が狭く、かつ迷路のようになっており、土地勘のない者にとっては、一歩足を踏み入れれば、迷宮のような場所にさえ感じる雰囲気を持っております。そしてここは薬物犯罪の温床になっておりましたが、張り込みは難しく、どうしても情報提供者による情報だけに頼らざるを得ない状況であったのも事実でありました。 このあたりには、昔の「飛田遊郭」の名残りをとどめた「飛田新地」があり、料亭が何軒も軒を連ね、営業しておりました。また、飛田新地の西側を南北に走る「飛田本通り」は、乗用車2台位の道幅で、南北に約400メートルの長さがあります。この飛田本通りには3軒ほどのパチンコ店がありました。 これら3軒の店は、覚せい剤の売人や中毒者などがよくいたため、1軒ずつ覗きながら、情報提供者や過去に逮捕した薬物関係者がいないかチェックし、いれば外に呼び出して、近くの喫茶店や飲み屋に連れて行き、薬物の密売情報を聞き出したりしていました。その時都合の悪い情報提供者が居れば、翌日事務所に連絡させるようにしていました。 ◆パチンコ店での苦い思い出 私はそのうちの1軒のパチンコ店に通い続けていました。そのうちにそこの店員と親しくなると、私の負けが込んでいるときなどは、内緒で裏側から機械を操作して私のパチンコ台に玉を出してくれました。そのお陰で2カートンほどのタバコを手に入れることができました。勝ったときなども、その後はその通りに佇むポン引き連中に3箱ずつタダで配り、その場で少し立ち話をしてまた別のパチンコ店の方に歩を進めるという毎日でありました。 そのうちの何人かは、その後私の素性を知り、その近辺の覚せい剤に関する情報を提供してくれるようになり、事実その情報に基づき何人もの売人や中毒者を逮捕しております。 このパチンコ店と言えば、それにまつわる苦い思い出があります。それは30歳代後半で、まさに脂がのっている頃の出来事であります。当時の私は、対象エリアの暴力団を相手に取り締まりをしていた関係で、彼達と似た風貌になるように努めておりました。 その恰好はといえば、鼻の下に髭を蓄え、髪型は角刈り、時と場合によってはサングラスをかけ、服装も彼達と似たようなものを着て、いっぱしの極道そのものでありました。休日の繁華街を女房と2人で歩いていると、暴力団員と勘違いされて人波が割れるという場面が何回もありました。女房はそれを面白がり、友人などに笑い話として話していたのを今でもよく憶えております。 その苦い思い出話をお話ししますと、ある日の午後8時頃のことであります。私は、いつものパチンコ店付近の路上に立ち、協力者やこれまでに逮捕した薬物関係者を見つけて情報を取るため、1人で彼達を探し求めて辺りに眼を凝らしていた時でありました。その時の私の雰囲気や挙動に異常を感じたのか、2名の制服警察官が、私に近づいてきて職務質問をかけてきました。 今の時代は、捜査活動中は2人1組で行動することは当たり前でありますが、当時は今と違い、自己責任のもと1人で情報収集を行っておりましたし、上司もそれを黙認しておりました。そのようなことが許された時代でもありました。 ◆「こいつ、拳銃を持っているぞ!」 本来ならその場で麻薬取締官の手帳をその警察官達に呈示して、身分を明らかにすれば、何事もなく終わっていただろうと思います。しかし、場所が場所だけにその後の情報収集活動に支障をきたす恐れがあります。だからヤバイと思う反面、何の言い訳もせず、その職務質問に応じておりました。 すると、通り過ぎる人々が私と警察官との遣り取りに興味を示し、周りに集まり始めました。さすがに警察官も、まずいと思ったのか近くの路地に私を誘導し、そのところで私の衣服の上から身体検査を始めました。警察官の1人が、私の後ろポケット辺りをまさぐっていた時、何か不審を感じたのか、そこに吊り下げられていた手錠に手が当たり、その直後「こいつ、拳銃を持っているぞ!」と声を荒げました。 私は通常捜索に向かう時には、手錠ケースに入れて持ち歩くか、或いは手錠の発する音がしないように右後ろポケット内に突っ込んでおりましたが、それでは時には緊急事態には対応できないこともありました。飛田本通りは何が起こるか予測のつかないエリアであっただけに、手錠を右後ろポケット近くのベルトに吊るすようにして、いつでもいとも簡単に取り出せるように持っておりました。 これまで逮捕した者や峻厳な取り調べで自供に追い込まれた者の中には、私に敵意を持つ者もおり、そのような連中とそこで遭遇すれば、時には乱闘に発展することもあり得ます。ですので、それに対抗するために、その場で強引に手錠をかけてその動きを封じるか、手錠を警棒のように振り回して、動きを抑えるために、護身用に所持するようにしていたのです。 興味津々で見ていた周りの者達を無視し、その場で仕方なく手帳を呈示して、身分を明らかにするとともに、情報収集中であることを説明しました。それを聞いた2名の警察官の吃驚した意外な顔つきは、今でも心の奥底深くに残っております。 ◆現在では観光名所に 当時、この地区の東側には、昔から大阪市立大学(現・大阪公立大学)の付属病院がありましたが、’93年にその病院も都市開発により建て替えられ、新たにリニューアルしました。さらに阿倍野駅近辺には、いまや観光名所の一つとなっている「あべのハルカス」という大阪市内を一望できる西日本一の超高層ビルがあるなど、その様変わりには眼を見張るばかりであります。 西成について言えば、今ではインターネットの普及によって有名になり、「ドヤ」と言われる簡易宿泊所が、1泊1000円程度で泊まれることもあり、近年では外国人のバックパッカーや若者達に人気があります。その背景には、徒歩圏内にJRや南海電鉄の新今宮駅や地下鉄の動物園前駅、日本橋でんでんタウンがあり、そこからユニバーサル・スタジオ・ジャパンや神戸、京都、奈良、更には関西空港への鉄道アクセスも充実していることも、一因であると考えております。 私が麻薬取締官をしていた当時、このような状況を誰が想像できたでしょうか……。でも日々の情報に接する限りでは、一部では依然として薬物犯罪に関してはくすぶり続けているようでもあります。ゆえに未だ謎多きエリアに思えて仕方がないというのが私の偽らざる気持ちであります。 文:高濱良次
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